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宮沢磨由と自宅不倫、育休・宮崎謙介議員が痛すぎると話題に

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月10日(水)11時28分37秒
  宮沢磨由と自宅不倫、育休・宮崎謙介議員が痛すぎると話題に
激裏GATE PRESS

 妻の出産入院中、自宅にグラビアモデル宮沢磨由を
 連れ込んだ事が話題になっている育休議員宮崎謙介。

 相手の宮沢磨由とは衆議院の和装イベントで知り合ったという。

 議員になる前はIT企業であるドリコム勤務。
 しかし退社時に「人を大切にできないトップは
 頭から会社を腐らすと社長批判ブログ発表して炎上した事も。

 2006年
 元嫁・加藤鮎子(加藤紘一娘で衆院議員)と結婚
 婿入りして、「宮崎」姓から「加藤」姓になる
 2009年
 地盤看板カバンを引き継ぐ予定で大物議員に婿入りしたが
 宮崎の不倫により3年で離婚
 加藤家を追い出されて「宮崎」姓にもどる。
 2012年
 衆院京都3区から出馬し初当選
 2014年
 2期目当選
 2015年5月
 現在の妻である金子恵美(元ミス日本関東代表で衆院議員)と
 デキ婚、育休パフォーマンスにより知名度アップ。
 2016年
 1月4日
 和装イベントでタレント宮沢磨由と知り合う
 1月30~31日
 宮沢磨由を嫁留守中の京都自宅に連れ込んだ事が発覚
 2月5日 妻が出産

 育児休暇前、子供や妻、日本を変えるために
 育児休暇を取得すると主張し注目を浴び、一定の支持も得られたようだ。
 しかし今回の騒動発覚後、コメントもせず、取材からは一目散に逃亡。
 イクメン議員として注目される立場にも関わらず
 自制できなかった宮崎議員、今後もバッシングは続きそうだ。
 

育休国会議員〈宮崎謙介・35〉の“ゲス不倫”撮った

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月10日(水)08時55分11秒
編集済
  育休国会議員〈宮崎謙介・35〉の“ゲス不倫”撮った

育休取得を宣言した宮崎議員。取りづらい世の雰囲気を打破し、子育て支援を打ち出したその姿勢は仕事との両立に苦労する女性たちの賛同を得た。だが、妻がついに出産するという時にしでかした事はまさに言語道断。イクメン政治家の本性を暴くゲス不倫スクープ!

〈お陰様で本日(朝方)3212gの元気な男の子を無事出産致しました。皆様から頂いたお励ましに心から感謝申し上げます。
 子供を授かり、責任感と共に更に確固たる強い信念を持ち、皆様からの負託にお応えすべく強い女性として一日も早く復帰したいと思います〉
 二月五日の朝方、自民党二階派の金子恵美衆院議員(37)が都内病院で無事男児を出産した。これは同日夕刻にフェイスブックに書き込まれた感激の第一声である。
 同じく自民党二階派の夫・宮崎謙介衆院議員(35)も、前日から病院に駆け付け、出産に立ち会った。彼もブログにこう綴っている。
〈本日、2月5日午前8時19分、無事に男児が誕生しました。昨日の夕方から陣痛が始まりましたが、私は陣痛に苦しむ妻(この時は23時頃に出産予定と診断)を東京の病院に送り届けて京都市長選の応援にいきました。皆様のご配慮で演説の順番を繰り上げていただき、早い新幹線で病院に戻ることができました。
 何とか23:30に到着しましたが、まだ先が長そうでした。立ち会いに間に合い安堵していたのですが、妻の戦いはそこから始まりました。定期的に陣痛の波がくるのですが、私はひたすら妻の腰をさすりました(今日は軽く筋肉痛)。その他にも勉強した陣痛を軽減させるテクニックを駆使してサポートをしたつもりですが、本当に辛そうでした。壮絶ですね、出産は。
 壮大なドラマを経て、長男が出てきてくれました。これから2人で大切に育てていきたいと思います〉
 そもそも金子氏の出産には注目が集まっていた。というのも、夫の宮崎氏が昨年十二月二十三日、自らの結婚式後の囲み取材で出産後約一カ月の「育児休暇取得宣言」をぶち上げたからだ。妊娠中の妻が切迫流産の危機で絶対安静状態となった事態に直面し、積極的な育児参加を決めたのだという。「一億総活躍のため国会議員の立場から男性の育児参加を推進する」と発言した。
 これには国会内外で賛否両論の声が沸き上がった。
「国会を放り出して一カ月も休むとはけしからんといった批判が殺到し、野党はもちろん、党内からも反発の声が上がった。何の相談もなく、マスコミを通じて発表したことに党の幹部も激怒し、宮崎氏のお目付け役である二階派の伊藤忠彦国対副委員長などは彼を呼びつけ、『子供を使って売名行為をするのか』『面倒みきれない』と怒鳴りつけたそうです」(政治部記者)
 もっとも安倍首相は宮崎氏を激励し、「それでこそ政治家だ」と讃えた。また、菅義偉官房長官は「育休の議員立法を超党派で作ったらいいのでは」と前向きに提案。塩崎恭久厚労相も「子育てを応援するのが安倍内閣。イクメンをやってもらわないと厚労相として困る」と後押しした。野田聖子前総務会長も「上の人たちがブツブツ言っているが、親の自覚を持って育休を男性自身が作ってもらいたい」とエールを贈った。
 パフォーマンスだとの批判にも、当の宮崎氏はこう反論している。

妻の妊娠にも「別れたくない」

「宣言してみると、想像以上の逆風だった。パフォーマンスだとの批判もあったが、それは否定しない。(中略)もともと育児に積極的な『イクメン』を意識していたわけではなかった。でもここまで批判があるなら、絶対に折れるわけにはいかない。女性だけに産め、働け、育てろなんて不可能だ。男性の育児参加がなければ、女性活躍と少子化対策の一方は諦めなくてはならなくなる。議員の育児参加が無理なら、政策決定の場に育児や両立の当事者がいなくなってしまう。男性国会議員が育休を取ることは、働き方の見直しや少子化対策にも密接に関係している」(毎日新聞二月二日付)
 だが、この男にそのような高邁な理想を振りかざす資格などない。敢えて言おう。宮崎氏は国会議員である以前に、人としてあまりに“ゲス”であると――。
 出産の六日前、宮崎氏は臨月の妻を放り出し、遠く離れた京都にいた。伏見城の大手門に連なる大手筋通り。京都三区に地盤を置く宮崎氏は、商店街の裏路地に佇む築三十年のマンションに部屋を借りている。彼は平日を東京・赤坂の議員宿舎で過ごし、週末はこの京都の自宅に戻ることが多い。だが、この部屋の存在は地元でもあまり知られていない。
 一月三十日夕刻、京都市長選の応援演説を終えた宮崎氏は自宅で東京からの来訪者を待っていた。かねてから宮崎氏と密かに関係を続けている不倫相手、宮沢磨由(34)である。あまり知られていないが、芸能活動を続ける現役タレントで、身長百六十八センチ、バスト九十センチのプロポーションを売りに、グラビアや舞台などで活動している。
 宮沢の知人が説明する。
「西川史子やフジテレビの斉藤舞子アナらを輩出した『ミス湘南』などで優勝した経歴を持つミスコンの常連です。仕事のメインは撮影会で、二十代の若いタレントに混じって、真冬でもボディラインを強調するような薄着で頑張っています。実家は代々の資産家。着物の着付けもプロ並みという、女子力の高い美女です」
 宮崎氏との接点はナンパだったという。宮沢をよく知る芸能関係者が匿名を条件に告白する。
「昨年冬頃、ある会合で宮崎さんから声をかけられた宮沢は、ひと目で彼を気に入り意気投合。連絡を取りあうようになってすぐ、深い関係になったと聞いています。はじめは政治家の火遊びに過ぎなかったが、よほど相性がよかったのでしょう。議員宿舎からほど近い赤坂のホテルでたびたび密会するようになったそうです。当然、彼女は彼に奥さんがいることも、出産を控えていることも知っています。それでも『絶対に別れたくない』と言って、周囲を心配させているのです」
 年明け一月四日には、宮崎氏の誘いで“国会見学”にも出掛けていったという。
「宮崎さんの手配したパスで議員会館の中に入り、食堂でランチを食べたそうです。料理の写真を嬉々としてブログにアップしていたのを見て、バレたら危険だと思いました」(同前)
 この日は通常国会が召集され、各党が仕事始め式を行った。宮崎氏は、すっかりお腹の大きくなった金子氏と並んで、夫婦むつまじいツーショットをマスコミに披露していたが、その裏で別の女性も招きいれていたというのだ。

「宮沢は周囲に、近々京都まで宮崎さんに会いに行くことも嬉しそうに話していたそうです。赤坂のホテルでは時間差で部屋に入ったりと人目を忍ぶデートばかり。金子さんの目の届かないところで、少しでも羽を伸ばしたかったのかも知れません」(同前)

距離を置き見詰め合う二人

 三十日、東京・目黒区の自宅を出た宮沢は黒縁のメガネに黒いコートを着て品川駅へ向かった。品川から乗った新幹線が京都駅に着いたのは午後七時過ぎ。私鉄に乗り換えてたどりついたのは、ほかでもない宮崎氏の自宅だった。
 マンションに入っていった宮沢が、再び外に出てきたのは約二時間後。その直後、わずか数秒差で出てきたのは、ダメージジーンズに黒いダウンを羽織った宮崎氏だった。
 このとき宮崎氏は大きなマスクで顔を覆っていたが、トレードマークでもある百八十八センチの長身痩躯は際立っていた。

 周囲を警戒するように、距離を置いて歩き出す二人。外で言葉を交わすことはなかったが、十字路で別れる刹那、互いに振り向き、じっと見詰め合う二人の表情は笑顔でほころんでいた。
 だが、不倫デートがこれで終わったわけではない。宮崎氏が、地元の支援者らしき若者と食事をしている間に、宮沢はひとりで夕食を取り、一時間ほどでマンションに戻ってきた。オートロックを開け、勝手知ったる様子で中に入る。
 宮崎氏は地元の焼肉店の個室で支援者と会合を楽しんでいた。会合は盛り上がり、「SMAPが~」といったワイドショー談議が洩れ聞こえてくる。氏が店を後にしたのは深夜〇時過ぎ。酒も入ったのか、支援者に借りたキックボードを駆り、上機嫌で周囲をぐるぐる走り回っていた。タクシーで自宅に戻ったのは午前一時頃。宮沢は約三時間、部屋で彼の帰りを待ち続けていたのだ――。
 宮崎氏は、幼少時代をフィリピンで過ごし、早大商学部を卒業後、IT関連会社などを経て人材紹介のベンチャーを起業。〇六年に加藤紘一元幹事長の三女・鮎子氏と結婚し、加藤姓を名乗っていたが、わずか三年で離婚。宮崎姓に戻している。
「鮎子氏との離婚も女性問題が原因のひとつ。義父の怒りを買って、追い出されるように逃げ出したと聞いている」(与党担当記者)
 二〇一二年に京都三区から出馬し、初当選を果たしたのも、加藤氏の後押しではなく、
「むしろ、彼は加藤氏の圧力に潰されることを恐れていた。選挙に出たのは、自民党職員に早大の後輩がいて、『どうやったら国会議員になれるの?』と聞いたことがきっかけ。公募のことを知り、京都三区をあてがわれただけのことなのです」(別の政治部記者)
 親戚が選挙区内に住んでいるものの、地元には支援者の少ない落下傘候補だった。京都の女性有権者が語る。
「背の高いイケメンだから、若い女性には人気があるけど、実績は何もないし、地元での評判はイマイチ。自民党だから票を入れるという人が大半でしょう。大手筋をよくうろついていて、女性と写真を撮るときに必ず肩に手を回すのがクセ。口説き文句のように『僕はここにいますよ』と言うんです。好きでもないのに、耳元で言われるとゾッとしますよ」
 お泊まりの翌朝九時、ニット帽を深くかぶった宮崎氏は近所のパン屋で菓子パンとペットボトルのお茶をふたつずつ購入。再び部屋に戻った。

 宮沢がマンションを出たのはすでに日も高い昼の十二時過ぎ。その足で観光名所でもある伏見稲荷神社へ。熱心に祈りを捧げる彼女の後ろ姿には鬼気迫るものがあった。さらに電車を乗り継ぎ、訪れたのは、パワースポットとして知る人ぞ知る陰陽師ゆかりの鎌達(けんたつ)稲荷。すぐにツイッターにこう綴っている。
〈最後の神頼み、一発逆転をしたい方にオススメなんですって!!〉
 道すがら宮崎氏の選挙ポスターを見つけると、健気にも彼女は必ずスマホで写真を撮っていた。

名前すら「知らない」と宮崎氏

 滞在計十六時間のお泊り不倫。小誌は宮崎氏の携帯に電話をかけて質(ただ)した。
「いやいやいや……もう勘弁してくださいよ。どういう時期か分かってるでしょ!」
 深い溜め息をついたあげくまさかの逆ギレ。一方的に電話を切った。
 宮崎氏は宮沢の名前すら知らないとトボケたが、電話の直後、宮沢のブログやツイッターから二人が会っていた一月三十日と三十一日の記述がなぜか削除された。事務所にも質問状を送り、対面取材を求めたが、回答はなかった。
 一方の宮沢にも目黒の自宅付近で声を掛けたが、口を真一文字にして記者を睨みつけ、走り去った。
 二月五日午後九時、金子氏の見舞いを終え、病院から離れた場所にいた宮崎氏を改めて直撃した。
――不倫を否定しないのか。
「……」
――相手女性は(京都旅行の)ブログを削除した。
「いや勘弁してください。よく分かんない話です」
――宮沢さんという女性のことは。
「知らないよ。知らない、知らない」
――土日に二人が泊まったのを見ている。
「へへへっ」
――育休を取ろうという議員が、なぜ奥さんを支えようとしないのか。
「……」
 薄ら笑いを浮かべ、何を聞いても口ごもる宮崎氏。記者を振り払い、逃げるようにしてタクシーに乗り込んだ。もはやまともに問題と向き合う姿勢はない。
 宮沢の母はこう答えた。
「娘から何となくは聞いています。でも、その議員さんは子供が産まれたばかり。結婚も二度目でしょう。娘は独身ですが、分別ある年齢です。まさかそこまで馬鹿じゃないと思う。私は娘を信じています」
 現在、男性の育休取得率は民間でも二~三%。「一億総活躍社会」を掲げ、女性の社会進出を推進する安倍政権は、これを二〇二〇年までに一三%に引き上げることを目標にしている。
 宮崎氏の育休宣言について、毎日新聞が実施した世論調査では「賛成」が四五%と「反対」を上回った。特に女性からの支持が厚く、「子育ての在り方を考え直すよい機会になる」と期待の声も大きかった。
 教育評論家の尾木直樹氏はブログで〈国会議員さんが率先してくだされば波及効果絶大です!! 尾木ママ大賛成!〉と発言。ジャーナリストの乙武洋匡氏は〈次世代のためにもこうした仕組みづくりを検討すべきだと思う〉、江川紹子氏も〈宮崎議員がんばれ!〉とツイートしていた。
 妻だけでなく、男性の育休取得を応援するすべての人の期待を裏切り、改革の機運に自ら水を差した宮崎議員。彼は自らの犯した過ちの落とし前をどうつけるつもりなのか。


「週刊文春」2016年2月18日号
 

《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》〈野球の言葉学スペシャル〉「長嶋茂雄になれなかった男」の悲劇 (ジャーナリスト・鷲田 康)

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月10日(水)08時53分40秒
編集済
  《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》
〈野球の言葉学スペシャル〉
「長嶋茂雄になれなかった男」の悲劇 (ジャーナリスト・鷲田 康)


 二年前の薬物報道以来、野球の公式行事に出席することのなかった清原和博容疑者(48)が一月十一日、日本プロ野球名球会主催の「ベースボールフェスティバル2016」に参加して久々に注目を集めた。
 セ、パ両リーグの対抗戦では盟友・佐々木主浩のフォークを中前安打して喝采を浴び、野球教室では巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄と久々に対面を果たした。
「清原! 元気にしているか? いつもキミの話をしていたんだ」
 長嶋が自由になる左手を差し出すと、深々と頭を下げた清原は両手で握り返した。すると長嶋は肩を引き寄せこう語りかけたという。
「キミはまだまだ若い。頑張るんだぞ!」
 清原は自らのブログで「長嶋さんの眼力、左手の力強さに圧倒された。涙がでるのを必死に我慢した」とその感激を振り返った。
 ただ、この感激の対面でも、周囲を困惑させたのは清原の異様な姿だった。間もなく傘寿を迎えようとする長嶋が現役時代の体型を保ち続けるのに比して、日焼けした顔で大きく膨れ上がった太鼓腹を突き出す姿は周囲に強い違和感を抱かせるものだった。
 それからわずか一カ月もしない二月二日に清原は覚醒剤所持の疑いで逮捕され、球界は衝撃に包まれることになる。
 清原はPL学園高校で一年夏から五季連続で甲子園大会に出場。通算十三本塁打の大会記録と二度の全国制覇達成で、チームメイトの桑田真澄との“KKコンビ”で旋風を巻き起こした。

革靴でのトス打撃でスタンドイン

 一九八五年のドラフトでは熱望した巨人がまさかの桑田指名で涙にくれたが、六球団競合の末に西武入団。入団発表の翌十二月十三日に西武球場(現西武ドーム)の見学に行ったときの写真撮影で、いきなりトス打撃を披露することになった。
「広報は『スタンドまでかっ飛ばして!』とか言うけど、スパイクを履いたプロでもトス打撃でスタンドまで飛ばすのは至難の業。慣れない木のバットで、しかも足元は革靴でしたからとてもムリだと思いました」
 スポーツ紙のベテラン記者は振り返る。
「ところがいきなり二球目を軽々と外野席に運んだ。その打球を見た瞬間にとんでもない選手が入ってきたと戦慄を覚えました」
 清原はそんな離れ業をいとも簡単にやってのける。
 巨人移籍後にクリーンアップを組む松井秀喜が才能を努力で伸ばした典型であるなら、清原は天才の中の天才だった。高校野球からプロの世界に飛び込んでも、ひょいと簡単にその境界線を越えてしまったのである。
 一年目の八六年は三十一本塁打、打率三割四厘、七十八打点で高卒ルーキーのプロ野球記録を次々と塗り替えた。日本シリーズも「四番・一塁」でフル出場して最高打率と最多安打を記録。このシリーズを観た長嶋は「これで向こう二十年間、日本のプロ野球は大丈夫だ!」と大興奮したという。
 ただキラキラと輝く清原には、もう一つ、情念のような憎しみの炎があった。ドラフトで自分を裏切った巨人と桑田への怨嗟だった。
〈誰よりも信頼していた友に、恋焦がれた人を奪われた。二人から同時に裏切られた〉(「男道」幻冬舎刊)
 そうして清原は両者への強い憎しみを屈折したライバル心に変えて、グラウンドに立ち続けた。その思いをようやく晴らせたのは、プロ二年目の日本シリーズで巨人を倒した瞬間に流した涙だったのである。
 その後も数々の最年少記録を塗り替え、西武黄金時代を支える主力選手として活躍したが、その華々しい活躍と裏腹に、もう一つ、ありがたくない言葉がついて回ってもいた。
「無冠の帝王」――西武在籍の十一年間で八度のリーグ優勝と六度の日本一を経験し、日本シリーズ優秀選手二回、同敢闘賞二回と短期決戦への無類の強さを発揮した。ところがシーズンを通じた成績ではついに打撃三部門のタイトルやシーズンMVPとは無縁だった。
 西武を長く取材していた放送関係者は証言する。
「長嶋さんは“千日計画”で松井を厳しく鍛えて大打者へと導いたが、清原にはそういう終生の師と呼べる人がいなかった。彼が必死に練習したのは入団一、二年目ぐらい。あとは好投手に抑え込まれると、早出の特打で一心不乱にバットを振るんですが、それも二、三日だけ。すぐに夜の街に繰り出し乱痴気騒ぎを繰り返していました」
 当時はグラウンドの活躍以上に派手な女性関係や破天荒な行動ばかりが話題になった。巨人では「どんな高校野球のスターも入団すればただのルーキー」と言われたが、当時の西武は選手全員がお友達感覚でそれほど厳しい上下の規律がなかった。そういう環境で厳しく諫める大人がいなかったのも不幸だった。
 入団直後から当時のオーナーだった堤義明の秘蔵っ子と言われ、球団関係者も腫れ物に触るように接した。
「入団三年目に死球に怒ってロッテの平沼定晴投手にバットを投げつけたのも、どこか驕った気持ちの表れだったのでしょう。唯一、清原を厳しく怒れた根本(陸夫)さん(管理部長=当時)が九三年にダイエーに去ったことも大きかったかもしれません」(同前)
 その後の清原は、当時の監督の森祇晶が最大の理解者で、その森の下で生え抜きの中心選手として遇されていた。それが清原を支える精神的な誇りだったが、皮肉なことにその最後の支えは、自らが念願して九六年オフに実現したフリーエージェント(FA)での巨人移籍で失うことになる。

想像以上の厳しいバッシング

 清原の巨人移籍は、実は水面下ではその二年前から進んでいた。九四年に西武に近いある人物が当時の読売新聞東京本社専務取締役社長室長だった内山斉に「清原を獲ることができる」と接触してきたのだ。
 この人物と内山をつないだのが森だったと言われている。すでにこのとき巨人は監督の長嶋の後任候補として森に白羽の矢を立て、内山が水面下で接触していた。筆者は当時スポーツ紙の記者として巨人を取材していたが、ある読売幹部から「清原の巨人移籍は森監督就任の“手土産”だ」と聞かされ驚愕したのを覚えている。
 ただFA権を取得した九五年は清原が右肩を脱臼。移籍は一旦、白紙となり、翌年に二年越しで実現することになった。肝心の森の巨人監督就任は九八年に実現寸前までこぎつけながら、あと一歩で消滅した。もし、森監督が実現していれば、清原の巨人での野球人生もまた、異なるものとなっていたのかもしれない。
 清原の取材を最初にしたのは高校生のときで、ひとことでいえば素直で明るい好青年だった。巨人に移籍した直後にインタビューしたときにも、色々と言われてはいたが、憧れの巨人に入れた喜び、期待を素直に語る姿は高校時代の清原そのものだった。ただ、同時に虚勢を張るところもあり「巨人も西武もプレッシャーは一緒。西武でも打てないときにはずいぶん叩かれてきたからね」と強がっていたのが印象に残っている。
 ただ、そうして期待に胸膨らませ移籍を果たした清原を待っていたのは、度重なるケガと、想像以上に厳しいバッシングの嵐だった。
 移籍交渉で「何も考えずに僕の胸に飛び込んできなさい!」と口説いた長嶋にとっても、清原は恋い焦がれた恋人のような存在だった。しかし移籍してきた姿は、すでに思っていた天才の面影を失った傷だらけの選手だったのである。
 巨人在籍一年目の九七年は三十二本塁打、九十五打点だったが、打率が二割四分九厘と低迷。特に好機での凡打が目立ち、シーズン途中に応援ボイコットとファンからのブーイングを浴びることになった。
 九八年には七月の札幌遠征で雨中の練習を強行させたことに反発した川相昌弘をヘッドコーチの堀内恒夫が殴打する事件があった。そのときにロッカーで最初にイスを放り投げて暴れたのは清原だったが、川相のように直接食ってかかることはない。暴れるパフォーマンスでしかなかったのが、いかにも気の弱い清原らしいエピソードである。

“劇場型思考”で転落へ?

 この九八年には左太もも肉離れで戦線離脱し、それ以降は左手首骨折、右内側側副靱帯損傷(九九年)、左太もも肉離れ(〇〇年、〇二年)と故障の連続だった。〇〇年五月に二軍落ちすると、当時のオーナーの渡辺恒雄から「これで勝利の要因が増えたな」と皮肉を言われる始末だった。
 その年のオフから肉体改造に取り組み、〇一年は久しぶりに大きなケガもなく打率二割九分八厘、二十九本塁打、百二十一打点と移籍後のキャリアハイの成績を残し、四年契約を結んだ。しかし翌〇二年は再び左足の肉離れで、わずか五十五試合の出場に終わっている。
 この頃には松井がチームの大黒柱に成長して、次第に清原は巨人での居場所を失っていった。打者としての苦境とともにチーム内でも奇行が目立ち、ケガの痛みと内角球の恐怖から逃れるために興奮剤「グリーニー」の使用疑惑がささやかれた時期でもあった。
 立場が決定的となったのは〇四年の堀内恒夫の監督就任だった。巨人らしさを求める堀内と衝突を繰り返し、そこから逆に耳にダイヤ入のピアスを入れ、本塁打後の首脳陣とのハイタッチ拒否など問題行動を頻発するようになった。そうして〇五年を最後に失意のうちに巨人を退団。監督だった仰木彬の誘いでオリックスに移籍したが、ケガで満足な成績を残すことなく〇八年に現役を引退した。
 清原から松井と自分との違いを聞いたことがある。
「十対〇で勝っている試合の最終打席で僕はホームランを狙って思い切り振り回すけど、松井はしっかりフォアボールを選ぶ。僕にはとてもまねはできない」
 夢ばかりを追うこの野球観が、長嶋茂雄の再来とも言えた天才打者を無冠に終わらせたのである。
 そしてそういう劇場型思考が実生活での派手な交友関係やその後の転落の人生への引き金だったのかもしれない。
 人は憧れのスターに自分の人生を重ね合わせる。
「清原がホームランを打ったあのとき、自分は何をしていたのか」
“KK世代”と言われ清原、桑田と共に時代を生きた人々は、甲子園大会で清原が放った特大のホームランに、巨人を倒した日本シリーズの涙に、自分の人生を重ね合わせて、ともに生きてきたのである。
 だからスターには自分だけではない、そのいくつもの人生への責任がある。
「長嶋茂雄をやるのは大変なんですよ」――ミスターからこんな言葉を聞いたことがある。世の中が描き、願う「長嶋茂雄」であるために、どれほどこの男が自分を律し、努力を続けてきたのか。その重みを漏らした言葉だった。
 しかし清原はその重みに耐えかねてしまった。
 だから清原は長嶋茂雄になれなかったのである。

「週刊文春」2016年2月18日号
 

《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》「がめつい女」と清原は罵倒 〈元妻・亜希さん〉が見た地獄

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月10日(水)08時52分31秒
編集済
  《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》
「がめつい女」と清原は罵倒 〈元妻・亜希さん〉が見た地獄


「あの人が薬物乱用で入院した時は『このまま死んでほしい』と思ったんです。あの時、本当に死んでいれば――」
 元妻の清原亜希(46)は、友人にこう告白したという。結婚生活十四年、彼女が垣間見た絶望の淵はどのような風景だったのか。

 亜希を知る芸能関係者が彼女の経歴を振り返る。
「福井県出身の彼女は本当に苦労人なんですよ。父親のギャンブルが原因で、小四の時に両親の離婚を経験。女手一つで育てられた。十六歳で芸能界デビューし、大手事務所に所属したものの鳴かず飛ばずで、銀座のクラブでホステスとして生計を立てていたこともあった。そんな彼女が清原と出会ったのは九八年八月。その日、亜希ちゃんは清原さんが出ていた試合を観に行き、試合後に知人の紹介で挨拶に行った。後日食事をして、交際がスタートしたそうです」
 ふたりは〇〇年十二月に挙式し、亜希は〇二年に長男、〇五年に次男を出産した。亜希はその三年後にモデル復帰を果たすと、“清原ブランド”の付加価値もあり、同世代女性から多大な支持を得たのだ。
「〇九年、清原さんが銀座のクラブ『R』のKママと不倫旅行をしたことが報じられましたが、彼女は『離婚はしない。すべては子供のため』と話していました。彼女は旦那の浮気相手のことは相当把握していて、『ここが彼女のマンションだよ』なんて教えてくれたこともあった」(亜希の友人)
 その頃、すでに人生の歯車は狂い始めていた。清原が入退院を繰り返していた一一年夏以降、亜希は身をもって夫の“病状”を知ることになるのだ。
「彼女が『夫が家の中で暴れて、どうにもならない』と困り切って嘆いていたこともあります。清原さんは彼女がモデルなので、顔などに傷をつけることはない。でも、モノを投げつけてきたり家具を破壊したり、大声で怒鳴ったりするので、『家にいる時はひと時も気が休まらない』と彼女は言うんです」(同前)
 一方、清原から亜希のことを相談されたという、球界関係者がこう打ち明ける。
「被害妄想なのか、彼は亜希さんを口汚く罵るのです。『あいつの金遣いが酷い。契約金や給料はおふくろ(清原の母)が一括管理で毎月いくらと決めて亜希に渡していたのに、ほとんど亜希が懐に入れていた』と。さらには『ダイナースカードの(自分の)支払いは月に一千万円を超えていたけど、亜希はそのポイントでもらえる商品券を自分のものにした。本当にがめつい女だ』と喚いていました」

「ドスを買って来い」

 この球界関係者によると、妻への罵詈雑言は執拗だったという。たとえば、
「自分で死のうと思い、亜希に『ドスを買って来い』と命令したんやけど、亜希はドスの意味がわからず、結局死ねなかった」
「亜希が毎日悪いものを食わせやがって。自分がこんな体になったのは亜希のせいだ。亜希が自分を殺そうとしている。最近、彼女を殺したくてどうしょうもない。斧と出刃包丁も買った」
 一方、亜希は次第に変貌していく夫に恐怖心を抱きながらも、鬱屈した感情を最愛の子供たちに吐露することはなかったという。
 急性薬物中毒になって約二カ月後の一一年八月十七日、清原は家族全員で焼肉店「名門」(新宿区)に来店。自らの誕生日を祝った。同年八月下旬には友人を交えて長男の誕生日パーティを催している。
「その年の年末、清原ファミリーは六本木のサパークラブ『N』を貸し切り、クリスマス会をやった。『普段は行けない祭りみたいな雰囲気で楽しみたい』と清原さんが提案し、店には金魚すくいや射的を設置。亜希さんははしゃぐ子供たちの写真を撮りまくっていた」(飲食店関係者)
 亜希が親しい友人に離婚の相談を持ちかけたのは、一三年頃のことだった。
 当時は清原のスポンサーであるパチンコ関連企業「フィールズ」の山本英俊会長が猛烈に離婚に反対していたという。
「山本会長は『無名だった亜希ちゃんがここまでこれたのも清原の女房だったからだろ』と。亜希はそれでも諦めなかった。彼女は常軌を逸した夫の行動の数々を山本会長に訴えたのです」(前出・亜希の友人)
 一四年三月、小誌の薬物使用報道後、亜希は夫に行先を告げずに家を飛び出したという。
 阿鼻叫喚の日々は、こうして幕を閉じたのだ。
 清原は同年九月に離婚後、周囲に「月に二回しか子供に会えないのは寂しい」と呟き、人目も憚らず泣くこともあったというが、前出の亜希の友人は「彼女は離婚前から、とっくに限界を超えていた」と語る。
 覚せい剤使用の最大の被害者は亜希と二人の子供だったに違いない。

「週刊文春」2016年2月18日号
 

《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》「録音切れや!」〈本誌スクープ記者〉恐怖の直撃体験

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月10日(水)08時46分32秒
編集済
  《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》
「録音切れや!」〈本誌スクープ記者〉恐怖の直撃体験


 その夜は雨がぱらつき、大学病院の正面玄関前は、人影もまばらだった。二〇一四年二月二十七日。二十二時三十分を少し超えた頃、病院の夜間通用口から、巨体を揺らしながら、色黒の男が姿を現した。そして、事件は起きた。
 すべては小誌記事が始まりだった。担当記者が今だから明かす衝撃スクープの内幕――。

「清原が、覚せい剤などの禁断症状に苦しんでいる。その証拠に、彼は治療のためA病院に通っている」
 小誌がこの情報を掴んだのは直撃取材の数日前のことである。取材班は、清原の行動を確認するとともに、都内の大学病院Aの出入り口で、数日間にわたり張り込みを行った。
 この日は気温も低く、外に数時間も立つ張り込みに、取材班の身体は冷え切り、疲労もピークに達していた。
「零時過ぎまで張り込んで、今日も現れなかったら、みんなで鍋でも食べに行って、明日もまたがんばろうか」
 カメラマンとそんな立ち話をしていた時、彼が突然声を張り上げた。
「後ろ! 後ろ! 来た!」
 振り返ると、病院の通用口に若い女性を連れた清原の姿があった。
 慌てて駆け寄る。
――清原さんが覚せい剤をやっているという話を聞いて取材しているのですが。
「……」
 突然の取材に驚いた様子もなく、口を半開きにしたまま、宙を見上げる清原。短パンからのぞく脛には龍の刺青が入っていた。
――今日は病院に通院されているんですか?
「……もしい、違ったらあ、あのおー……」
 彼のゆっくりとした口調に、異様な空気を感じた。
――去年、足立区の病院に行かれましたよね?
「……」
 足立区の病院とは、薬物の禁断症状を治療する精神科だ。清原はこの病院に入院していたとの情報だった。
「事務所、通して、電話、してこいよ」
――事実ではないということですか?
「それも、含めて、事務所、通して、こいよ。撮った写真、消せ。消せ。消せ」
――今日は入院ですか?
「けんさ、にゅう、いん」
――それは薬物ではないんですか?
「……だから、事務所、通して、来いよ」
 この後も、清原は目が泳ぎ、質問に呂律が回らない口調で答え続けるのだった。そして、こう吐き捨てた。
「もし違った場合、あなた、とことん追いつめますからね」
 恫喝めいた言葉を発した直後のことだった。
「録音してんの、切れや! な?」
 そう言って、清原は襲い掛かってきたのだった。ICレコーダーを掴み、体を壁際に押し付け、強引に腕を捻りあげる。
――切れないです、これは。
「これ切れ!」
――警察呼びますよ。
「呼べや」
 さらに、力ずくで病院内に引っ張られ、人影がない通路へと引きずり込まれた。病院の警備室前をもみ合いながら通過するが、高齢の警備員たちは近づいてこない。そして通路を曲がり、死角になっている場所に連れ込まれると、壁に何度も叩きつけられた。自衛官出身のカメラマンが制止に入るが、逆に投げ飛ばされそうになった。
「これはヤバい」
 決して大袈裟ではなく命の危険を感じた。薬物依存の清原の暴走は、制止がきかない様子だった。
 その時、遠くから傍観していた警備員が、ただならぬ空気を感じ、ようやく警備室へ戻り一一〇番通報をした。

自傷行為を始めた清原

 一方、清原は奪い取ったICレコーダーを、両手で真っ二つにへし折った。一瞬、ニヤッと笑う清原。
 そして、折れたICレコーダーの鋭利な部分で、自身の左手の甲を何度も切りつけ始めたのだ。
 数分で、ガードマンやナースが駆けつけた。清原は大声で、こんな虚偽の説明を始めた。
「こいつ(記者)にやられてケガしたんや」
「明日仕事があって、この手じゃできない。弁償しろよ。明日CMの撮影があって、何千万の損や。桑田も来るんや」
「お前を一生、追い込むからな!」
 その姿に、かつて球界のスーパースターだった面影はなかった。
 警察が到着すると新宿署に同行を求められ事情を聞かれた。もちろん清原も事情聴取されている。
「清原が覚せい剤をやっているとの情報があり、取材したら、襲い掛かってきた」
 記者の説明に、捜査員は面食らっていた。もちろん詳しい取材内容を明かすことはしなかった。捜査員は、記者に「被害届を出しますか?」と聞いてきたが、編集部としては、被害届は出さず、記事で薬物疑惑を追及しようと決めた。
 記事掲載後、清原は報道が事実無根と印象付けようと、小誌を訴えると各マスコミにリリースを出した。しかし、結局訴えることはできなかった。
 また、清原の事務所から編集部に電話がきて、「ICレコーダーを弁償したい」と持ちかけられたこともあった。もちろん、断った。
 同年三月二十二日、小誌は都内の焼肉店前で再び清原を直撃している。異様なほど出っ張った腹の清原は、取材班の前で突然嘔吐し、迎えの車に乗り込み逃げるようにして去っていった。
 もはや清原の身体が、異常をきたしていることは誰の目にも明らかだった。

「週刊文春」2016年2月18日号
 

《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》相談役に号泣カミングアウト

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月10日(水)08時45分6秒
編集済
  《清原和博 懺悔告白 本誌でしか読めない逮捕までの全真相》
相談役に号泣カミングアウト


「ドラフト、来季の契約更改、キャンプイン……秋から冬にかけて野球関連のニュースを見ると、切なくて、覚せい剤をやりたくて止まらなくなる。子供に会えなくて寂しくて……もうダメです」

 警視庁による捜査が水面下で進んでいた一昨年の秋、清原和博(48)は親しい球界関係者に泣きながら苦しい胸の内をこう吐露していた。しかし、球界の“番長”と呼ばれた豪傑の転落を誰も止めることは出来なかった――。
 二月二日深夜、警視庁組織犯罪対策五課は、清原を港区内の自宅マンションで覚せい剤の所持容疑で現行犯逮捕した。
「捜査員が踏み込んだ時、清原は一人で、左手に注射器と吸引用のストローを持っており、『それは何だ。注射器を置け』と言うと、彼は静かにテーブルの上に置いた。テーブルにはビニール袋に入った覚せい剤がありました。今回の捜査では、行動確認や立ち回り先の遺留物の捜索によって、覚せい剤の所持か使用で現行犯逮捕できる確証を得て、あとは清原が一人になるタイミングを狙っていました」(警視庁関係者)
 捜査班が昨年から頻繁に接触を図って来たのが清原のタニマチとされてきた実業家A氏だった。過去にコカイン所持などで逮捕歴があり、清原の薬物使用を間近で見てきた一人だ。
 警視庁関係者が続ける。
「この実業家A氏が栃木県内の刑務所に服役していた時に知り合ったとされる売人が群馬にいるとの情報も掴んでおり、薬物入手ルートの一つが群馬にあったことは認識していました。
 逮捕前日、清原は車で群馬方面を訪れて薬物を手に入れており、クスリの出元は関東に拠点を置く指定暴力団の、群馬県内の傘下団体組員だとみられます」
 まさに満を持しての逮捕劇だった。
「逮捕時に押収したスマートフォン二台を含む四台の携帯電話のうち、一台は二〇一四年三月に契約されたもので、名義は名古屋の風俗業者でした。この人物は約五年前に愛知県警に風営法違反で逮捕されており、山口組弘道会の関係者とみられます。携帯電話の番号登録には清原と交流がある山口組六代目体制のトップ5に入る最高幹部の名前もあった。さらに清原の通信記録を解析するなかで、突出して多かった通信先が、有名モデルが所属する都内の芸能プロの社長でした。彼は実業家A氏の盟友で、資金力があり、芸能界の大物事務所社長の側近の一人とされている」(同前)
 警視庁に先を越されたものの、厚労省の麻薬捜査のプロ、麻薬取締官たちも清原の動向を時間を掛けて追っていたという。
 すべては小誌二〇一四年三月十三日号が報じた「清原和博緊急入院 薬物でボロボロ」という一本の記事から始まったのである。
 球界の元スター選手である清原が、覚せい剤の禁断症状に苦しみ、密かに精神科で治療を受けていたとする内容だった。

引退試合に暴力団員を招待

 記事は凄まじい反響を呼んだ。これに対し清原は『フライデー』に登場し、「オレは絶対に麻薬はやってない」と反論。あくまで重度の糖尿病であるとの主張を展開した。しかし、この時点で彼の体はもはや取り返しがつかないほど薬物に喰まれていた。
 清原が薬物に手を染め始めたのは西武からFAで巨人に移籍して二年目の九八年頃のことだ。のちに覚せい剤取締法違反(使用)で逮捕された当時の後輩選手は、小誌の取材に清原から依頼を受け、薬物を調達していたことを明言している。
「交際していた元女子アナの巨乳タレントとも一緒にクスリをやると話していました。クスリをやると目の水分が減って乾燥したり、髪に艶がなくなってパサパサになるのですが、清原さんは髪がパサパサになっていたから、相当嵌り込んでいたと思います」
 二〇〇〇年にはモデルだった亜希夫人と結婚した。その一方で、女性とのドラッグセックスを楽しむために、合成麻薬MDMAからコカイン、覚せい剤へと次第に深みに堕ちていった。
“クスリ人脈”も、今回の逮捕の端緒となった実業家A氏ルートを中心に拡大していった。都内のある会社経営者が明かす。
「有名ラーメンチェーンの社長から、清原のタニマチと言われた実業家A氏の会社に出資して欲しいと相談され、その会社に連れて行かれたことがあります。彼らと清原、そして清原の巨人時代の先輩の元野球選手らは都内のホテルで頻繁に覚せい剤をやっている仲間だと説明されました」
 清原を取り巻くどす黒い人脈は当時から球界でも際立っていた。
「〇八年十月、清原は京セラドーム大阪で引退試合を行ないましたが、この晴れ舞台に、彼は山口組弘道会系の稲葉地一家の幹部や企業舎弟を招待していました。この企業舎弟は清原とは親友と言っていい関係で、都内でインターネットカジノなどを経営し、稲葉地一家の重要な資金源となっています。彼は競馬界にも進出し、武豊が三千勝を達成した際、勝利馬のスカイビューティーの“口取り写真”にジャージ姿で他の暴力団関係者と映り込み、競馬界で一時話題になった人物です」(山口組関係者)
 引退を機に、清原の夜遊びにも拍車が掛かり、〇九年、銀座の高級クラブ『R』のKママとの国内外での不倫旅行が報じられた。

「お前を殺して私も自殺する」

 当時、清原を追いかけていた写真誌カメラマンが振り返る。
「同じ年の九月、清原は地方から帰京すると自宅には直行せず、都内のホテルで深夜まで滞在してから帰宅したことがありました。清原は呂律も回らず、全身が痙攣を起こしているような感じでホテルスタッフも心配して声を掛けていました。ホテルへは清原のスタッフから『部屋はチェックアウトしていないので、ハウスキーパーも含めて絶対に誰も入れないように』と連絡があったそうです」
 当時の状況を清原の相談相手でもある友人の一人が打ち明ける。
「その年の十二月、清原が重度の薬物中毒に陥ってしまい、日常生活にも支障を来すようになり、周囲に事情を話して助けを求めたのです。清原は覚せい剤を注射器で太ももの付け根に打っていたそうです。
 愛人のKママも薬物にどっぷりとハマり、もはや二人して治療が必要なレベルに達していた。清原は数週間の入院でクスリを抜いてもらったそうです」
 清原はこの相談相手に覚せい剤をはじめたきっかけをこう語っていたという。

「現役時代から膝の痛みを抑えるために鎮痛剤を飲んでいた。痛くて眠れないこともあり、大量の睡眠薬も常用していて、あれこれ薬物を試しているうちに周囲からすすめられて覚せい剤をやるようになった」

 二〇一一年六月には、薬物の大量摂取により急性中毒を起こし、死の淵を彷徨ったこともあったという。
「六本木のホテルで意識が混濁し、口から泡を吹いて倒れ、緊急入院という形で病院に運び込まれたのです。
 清原の母親も駆け付け、『息子を助けるためならいくらでもお金を出します』と号泣したそうです。その病院は有名人やその子息などVIPを極秘に入院させる体制が整っていると聞きましたが、母親は同じ病院に持病を理由に入院して世話を焼いてくれたそうです。
 危険な状態でしたが、電気ショックなど、あらゆる治療が施され、何とか一命は取り留めた。退院する時には母親から『もしお前がまた覚せい剤をやったら、私はお前を殺す。そして私も自殺する』と泣きながら叱られ、清原も大泣きし、『これ以上、オフクロを悲しませたくない。もう絶対にクスリに手を出さない』と誓ったと話していたのですが……」(別の友人)
 その誓いもむなしく、清原はクスリの魔力から逃れることはできなかった。
 当然、仕事にも影響が出始め、当時の所属事務所「JSM」のオーナーで長年清原を支えて来たパチンコ商社「フィールズ」の山本英俊会長との関係にもすきま風が吹き始めた。
「以前は山本会長と清原が一緒に飲むこともあったのですが、その機会もなくなったようです。山本会長にとってどこかの時点で清原の“位置付け”が変わってしまったのでしょう。向島の料亭で行なう誕生日会や築地料亭での忘年会にも呼ばれることはなくなった。
 清原には一度西武から二軍監督のオファーがありましたが、清原本人は現場にこだわっているというものの、プライドもあってこれをあっさり断わっています。そのくせキャンプ取材に行けば飲み食いした高額請求書を所属事務所に回し、パチンコ営業や大学の講演会、競馬イベントなどの仕事を次々とドタキャン。ギャラの取り分を九割も要求し、もはやお荷物以外の何ものでもなかった。山本会長は赤字のJSMを清算する過程で、清原に独立するよう促したのです」(スポーツ紙記者)
 清原はギリギリまで「辞めたくない」と山本会長に直訴していたが、結局、一一年十一月に個人事務所「オフィスキヨハラ」がスタート。山本氏は「ポケットマネーで支援している」と周囲に説明していたという。清原にとっては辛うじて命綱が保たれた形だが、人心が離れていく寂しさが応えていたようだ。
「清原は右足のふくらはぎに龍の刺青を入れ、さらには左胸から背中にも昇り龍の刺青を入れて、ヤクザに自らを投影するようになったのです。
 左胸の刺青について『名古屋まで行って彫ってもらった。二百六十万円掛かった』と得意気に語っていました。『野球界に復帰したいと言いながら、どうして刺青なんかを入れるの?』と聞くと、『最近、寂しくて仕方ないので、寂しさを紛らわせるために入れた』と意外な答えが返って来ましたが、ある意味本心だと思いました。彼は番長キャラで男らしい面ばかり強調しているけれども、実は気が小さくて臆病者なんです」(前出・相談相手)
 清原は相談相手に自分のことをこう語っていた。

「初対面の人と一緒に食事をしたりすることが嫌で仕方ない。見知らぬ人がいる場所は緊張してドキドキする。小学生の頃は、野球の練習に行くのが嫌で、母親の陰に隠れてばかりいた。
 現役時代もバッターボックスに出て行くのが嫌だった。五万人いる球場の打席でバットを構えるのは、どうしようもなく緊張する。空振りしてしまうとお客さんのハァーッていうため息が全部自分に吹きかかるようで、緊張と不安で発狂しそうになる」

地方のスナックで“ドサ回り”

 一方で、単純にヤクザへの憧れも持っていたようだ。清原が通い詰めた都内のサウナ店の常連客の一人がこんなエピソードを明かす。
「山口組六代目の司忍組長が立ち上げた弘道会の中核組織、『司興業』の森健司組長が店のサウナの入り口で清原とすれ違い、『おう、清原さん』と声を掛けたことがあったのです。
 清原は『森さんに声かけてもらった。すごい!』と興奮気味に何度も声に出して喜び、森組長が向かったロッカールームを目で追って、そのうち走り寄って、何かを話していました。どうやら『森さんが俺のことを知っていてくれて、応援してくれている』ことが彼の中で励みになっていたというようなことを話していました」
 清原が暴力団への傾倒を深めるなか、小誌が前述の薬物中毒疑惑を報じる。その約半年後には亜希夫人との離婚も成立した。
「清原本人は『文春に二億五千万円の損害賠償請求を起こす』と吹聴していましたが、薬物使用を知る知人らは、“墓穴を掘るようなもの”と呆れていました。報道直後に、妻の亜希さんが子供二人を連れて家を出た時も、清原は『北朝鮮にでも拉致されたのかと思った』と話し、危機感がなかった」(前出・相談相手)
 ただ、小誌報道を境に彼を取り巻く状況も一変した。
「警視庁だけでなく、他県警も清原の動向に興味を示していました。暴力団絡みで福井県警は組対課の警視らが上京し、清原周辺の内偵捜査を行なっていました。
 清原の行動確認に入っていた別の捜査機関の調べでは一四年七月末時点で、把握できた銀行口座には残金がわずか九千円弱だったという情報もありました」(社会部記者)
 バット一本で生涯年俸五十億円以上稼いだとされる清原にとっては悪夢のような日々だったに違いない。
「知り合いの伝手で頼まれ、関西地方のスナックのパーティーにゲストとして顔を出し、百万円のギャラを受け取るなど細々と活動している様子でした。仕事が激減したことからマネージャー兼運転手は派遣元であるフィールズに戻り、次のマネージャーが見つかるまで暫定的に業務を手伝う形になっているそうです」(前出・スポーツ紙記者)
 離婚成立後、独身時代から十七年暮らした一億五千万円とも言われる自宅マンションを売却。そのお金を子供の養育費に充て、自らは都内のウィークリーマンションを転々とした。
 清原は精神的に不安定で、前出の球界関係者に涙ながらにこう語っていたという。

「あんなに稼いだのにカネがなくなってしまったのは巨人のせいだ」
「引退後、巨人から毎年五千万円の振り込みがあったのに、それを一方的に切られてしまったから、生活が苦しくなってしまった。俺はそのせいでシャブに手を出したんだ」

 このように清原は「恨み節や八つ当たりばかりで、覚せい剤をやってしまうことをすべて人のせいにしていた」(前出・球界関係者)というが、次第に自らの「死」について語ることも多くなったという。

「急性中毒の時、そのまま死んでいればよかった」
「生きているのが辛くてたまらない。いつも死んでしまいたいと思っている。名古屋の弘道会の親分のところに行き、“殺して下さい”と頼んだこともある」

 そして冒頭のように清原のトラウマになっている三十年前のドラフトの苦い思い出や巨人を解雇された日の屈辱体験などを悔しさを滲ませて語っていたという。
「清原は球界に『三人だけ許せない奴がいる』というのが口癖。一人はドラフトで早稲田大学進学を公言しながら巨人と“密約”を交わし、巨人入りを熱望していた清原を欺いた桑田真澄。二人目は巨人時代に清原を冷遇した堀内恒夫元監督。そして三人目が清原に戦力外通告をした球団関係者です」(前出・球界関係者)
 特に巨人解雇のシーンは強く印象に残っていたようだ。球界関係者に興奮気味にこう言ったという。

「巨人を解雇される時、球団事務所でもホテルでもなく、ホテルの駐車場での立ち話で告げられた。野球人生最大の屈辱であり、今でも当時を思い出すと心臓がバクバクする」

佐々木氏のパーティーの前にも

 このころ実業家A氏と清原はたびたび車を飛ばして薬物を買うために群馬を訪れていたという。
 A氏関係者が言う。
「二年ほど前だったと思います。A氏と清原は売人からクスリを手に入れ、一刻も早く体に入れるために、近くのラブホテルに行った。ところが体に入れたあと、清原はぐったりしてベッドから動こうとせず、長時間滞在することになり、ホテルマンに怪しまれた。そこで『実は清原さんが来ている。マスコミに追われていて、どうしてもホテルから出られない』と再延長をお願いし、そのお礼に清原に言ってサインをもらい、色紙をホテルに置いてきたこともあったそうです」
 二〇一四年十二月二日、清原は東京の帝国ホテルで行なわれた、佐々木主浩氏の野球殿堂入り祝賀パーティーに姿を見せた。
 この時、実業家A氏は三日前から清原と行動をともにしていたという。
「そこでずっと体にクスリを入れていたそうです。久々に公の場に出ることに対し、清原には抵抗があり、『不安や考えなきゃいけない悩みがクスリを入れることで消える』と言っていたとか。ただ、クスリを入れたことで外出が億劫になり、『パーティーには行かない』と言い出したので、A氏が『行けよ』と後押ししたと言っていました」(同前)
 前出の球界関係者によると、清原は「子供に会えなくなるからシャブは止める」と言っていた時期もあったが、結局は「寂しくて」また手を出してしまうという。
 昨年四月、清原は表舞台に戻って来た。
 TBS系の「中居正広の金曜日のスマたちへ」に出演し、涙を流して苦境を語り、四国八十八カ所の霊場のお遍路めぐりをする姿を放送したのだ。
「大手芸能プロの『ケイダッシュ』の川村龍夫会長が後ろ盾になり、TBSを説き伏せたのです。お遍路取材には急遽、スポニチの記者も同行させる念の入れようでしたが、球界は冷淡な反応でした。現役選手、監督のVTR出演もなく、各スポーツ紙の担当記者ですらコメント取材の依頼を断わっていました。結局VTRでコメントを出したのは野村克也元監督と、佐々木主浩だけでした。一方でNHKの大阪放送局も清原の密着取材をしており、清原のロケ取材には、いつもカバン持ちとして三十歳前後の銀座のクラブホステスが帯同していたそうです」(マスコミ関係者)
 マスコミへの露出も増え、昨年八月二十八日の「ダウンタウンなうSP」(フジテレビ系)などで疑惑を否定し続けた。
「その後は銀座の高級クラブ『V』の二十代前半のホステスと交際を始め、半同棲状態だったとされます。彼女はハーフの元モデルで、子供もいます。事件当日も清原と一緒にいたとみられ、彼女は当日の清原の足取りを知るキーマンの一人です」(前出・社会部記者)
 今回の清原逮捕についてマネジメントに関わってきたケイダッシュに聞くと、こう回答した。
「おつき合いのある元スポーツ選手からの紹介で、平成二十七年三月、清原氏所属のオフィスキヨハラとケイダッシュグループ関連会社が業務提携契約を締結しました。清原氏が逮捕されるまで、まさか薬物を使用しているとは思ってもおらず、まさに青天の霹靂です」(広報部)
 だが、清原の言い分のみを鵜呑みにし、嘘で固めた言い訳を垂れ流しにさせて来た責任はテレビ局同様、重いと言わざるを得ない。
 二十三年のプロ生活で三球団を渡り歩いた清原だけに逮捕の波紋も大きい。
「清原を取り巻く人脈のなかでも、巨人の選手が関わった昨年の野球賭博問題で、球界と暴力団との重要な接点とみられていたパ・リーグに所属した四十代の元外野手と、清原と巨人で一緒だった先輩の元選手の二人には薬物疑惑が囁かれている」(前出・社会部記者)
 この先輩の元選手は小誌の取材にこう答えた。
「清原とは〇五年にあるトラブルがあって、それ以来疎遠になっていました。ただ、文春の報道後、清原を励ますために共通の友人が声を掛けて三回ほどゴルフを一緒にしました。あとは昨年、セ・リーグのある監督を交えて一度ふぐを食べただけです。薬物事件に関係していた実業家A氏とは面識はありますが、それも十年以上前の話です。私が薬物をやっているなど、とんでもない話です」
 かつて身を挺して清原を薬物から守ろうとした彼の母親は今、アルツハイマーのため、施設に入居しているという。

「週刊文春」2016年2月18日号
 

さらばあぶない刑事って県警捜査2課の石島某の事?

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 8日(月)11時07分4秒
編集済
  さらばあぶない刑事って県警捜査2課の石島某の事?

 

アパグループ代表夫妻「7階建て50億円大豪邸」を建設中

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 7日(日)12時05分26秒
編集済
  横浜でも数年後に大規模なアパホテルが出来ます。


アパグループ代表夫妻「7階建て50億円大豪邸」を建設中
FRAIDAY

都心の超一等地に住むお金持ちたちも驚いた!


建築中の元谷夫妻の豪邸は高台に位置し、「周辺でも随一の、坪単価が高い土地」(不動産関係者)という

 東京・港区の都内有数の高級住宅街で、ある豪邸の建築風景が話題になっている。土地の広さは、約915㎡(約277坪)。地上7階、地下1階建てで、建物全体の面積は約3400㎡(約1030坪)。ビル工事のように、クレーンを使って資材を持ち上げるほどの高さ。周辺の超一等地の住人たちも、思わず見物に訪れるほどの巨大さなのだ。

 そんな要塞のような建物の壁面に貼られたプレートには「M邸新築工事」の文字。この大豪邸の主(あるじ)は、アパグループ代表の元谷外志雄(もとやとしお)氏(72)なのである。

 アパは、全国に約5万8000室を展開するアパホテルや、アパマンションを中核事業とするグループ企業。ハデな帽子がトレードマークの妻、元谷芙美子(ふみこ)アパホテル社長(68)が広告塔の役割を果たしている。

「周囲には大使館や都内有数の規模の公園もあり、環境は最高。人気が高く、港区のなかでも、とくに出物が少ないエリアです。坪単価1200万円は下らないでしょうから、土地だけで約33億円。このレベルの高級物件であれば、建設費用の相場は1坪当たり約150万~200万円ほど。つまり上物は約15億~20億円かかる可能性があります」(都内の不動産関係者)

 まさに「50億円豪邸」なのである。しかし、元谷夫妻は地元の石川県小松市や同じ港区の麻布などにも大豪邸を構えている。1月10日に放送された「誰だって波瀾爆笑」(日本テレビ系)の「話題の名物社長 豪邸スペシャル」に芙美子氏が出演。麻布の「総工費15億円」という豪邸を紹介していた。

「アパは、中国などからの爆買い客の増加による追い風を受けてホテル事業が絶好調。都心を中心に用地買収を繰り返しています。グループの’15年11月期の連結売上高は約900億円で、経常利益は実に約272億円。しかし、一方で中国の大型連休などに当たる繁忙期はシングルルームの宿泊料金を1泊3万円という超高額に設定するなど、一般のビジネス客からは敬遠されつつあります」(全国紙経済部記者)

 大豪邸を次々と建てられるとは、うらやましい限り。しかし、サラリーマンの味方だった1泊7000円時代のアパホテルファンからすれば、少しでも宿泊料金に還元してほしいものだ。


 
 

CO2排出権取引受託取次業務の訪問販売業者「㈱海翔物産」に対する指示処分について

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 7日(日)04時30分9秒
編集済
  沖縄を中心に全国規模で投資トラブルが発生しているCO2排出権取引受託取次に関するトラブル。
沖縄県那覇市でも株式会社海翔物産と言う企業が行政により指示処分が下されている。
この海翔物産とオーナーが一緒であった株式会社邦洋とトラブルになっている中小企業の
社長が今、被害を訴えている。

株式会社邦洋の沖縄銀行本店営業部の通帳口座を調べると確かに投資と称して募った資金が
CO2排出権取引に使われた形跡が全く無い。
通帳の流れを見ると従業員の給与に使われている事やオーナーであったM氏が投資に使用していないことなどが分かる。
取材でオーナーM氏が東京から頻繁に那覇に来て現金で資金を落ち帰っていたと株式会社邦洋の代表取締役であるA氏は語っている。

現在、東京の関係先との関係を司法当局も捜査していると聞く。

今後の展開が気になります。










CO2(二酸化炭素)排出権取引に関する儲け話のトラブル!
-一般の消費者は手を出さないで-

消費者庁
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20110922_2.html

[報告書本文] CO2(二酸化炭素)排出権取引に関する儲け話のトラブル!
-一般の消費者は手を出さないで-[PDF形式](337KB)
http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20110922_2.pdf


CO2排出権取引受託取次業務の訪問販売業者
「㈱海翔物産」に対する指示処分について

那覇市役所
http://www.city.naha.okinawa.jp/kakuka/siminanzen/syouhiseikatu/syouhiseikatu20141113.html

平成26年11月11日に沖縄総合事務局が、CO2排出権取引受託取次業務の訪問販売業者である株式会社海翔物産(本社:沖縄県那覇市)に対し、特定商取引法第7条の規定に基づき、次のとおり違反行為の是正を指示しました。
指示の内容
 特定商取引法に規定する訪問販売に関する業務において、次の事項を遵守すること。
(1)訪問販売に係る役務提供契約の締結について、契約を締結しない旨の意思を表示した者に対し、当該役務提供契約の締結について勧誘をしないこと。
(2)訪問販売に係る役務提供契約の締結について、迷惑を覚えさせるような仕方で勧誘をしないこと。
認定した違反行為

・再勧誘
 株式会社海翔物産の営業員は、CO2排出権取引受託取次業務の訪問販売を行うに際し、消費者が当該訪問販売に係る役務提供契約を締結しない旨の意思を表示したにもかかわらず、後日、再度の勧誘を行っていました。

・迷惑勧誘
 株式会社海翔物産の営業員は、CO2排出権取引受託取次業務の訪問販売を行うに際し、何度も消費者の自宅や職場に電話をかけ、仕事に支障をきたすなど迷惑を覚えさせるような仕方で勧誘を行っていました。
処分の詳細について

・特定商取引法違反の訪問販売業者に対する指示処分について(沖縄総合事務局)
http://ogb.go.jp/move/OSHIRASE/press/201411/20141114kaito.pdf

補足情報

 本処分は、特定商取引法第69条第3項の規定に基づき、消費者庁長官の権限委任を受けた沖縄総合事務局長が実施したものです。
関連情報
・「沖縄総合事務局」:http://www.ogb.go.jp/

・「消費者庁」:http://www.caa.go.jp/

・「独立行政法人 国民生活センター」:http://www.kokusen.go.jp/

・「県民生活センター」:http://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/kemminseikatsu_center/index.htm

株式会社海翔物産(本社:沖縄県那覇市)に対し違反行為の是正を指示
http://sakimono-hunter.com/news/82/#navigator



訪問販売業者【(株)海翔物産】に対する指示処分について
消費者庁 発表月 2014年11月

http://www.kokusen.go.jp/g_link/data/g-20141125_18.html
 

重度のシャブ中だった清原は女子大生ホステスと同棲中

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 7日(日)03時38分30秒
編集済
  重度のシャブ中だった清原は女子大生ホステスと同棲中
激裏GATE PRESS

 月に数回、足がつかないよう他県まで
 覚醒剤を仕入れに行っていたという清原和博。
 昨年は30代ホステスと、現在は女子大生でハーフのホステス
 エリナと同棲中だったという。

 今回の逮捕を彷彿とさせる漫画が話題に

 モデルの亜希夫人と結婚していた頃から
 銀座のクラブに足しげく通い、女遊びが激しかったが
 薬物疑惑以降仕事がなくなり有名クラブのホステスに次々振られるハメに。
 奇行と金欠で次々と銀座のクラブを出禁になっていた清原だが
 女子大生ホステスとは半同棲だったという。
 しかし金が無くなれば、ただの無職のシャブ中半グレ中年。
 女子大生ホステスからも切られるのは当たり前か。

 7年前、酒井法子、そして押尾学が続けて薬物事件で逮捕され、
 芸能界に激震が起きたことは記憶に新しい。
 北島康介や長渕剛など逮捕が噂される有名人は枚挙に暇がない。
 芋蔓逮捕はあるのか。捜査の行方に注目が集まっているようだ。














清原逮捕でテレビ復帰を後押しした中居正広がバッシングの標的に!? SMAPの移籍先だった芸能事務所も関係か
リテラ更新日:2016/02/03

驚きの一報が入って来た。2月2日夜、元プロ野球選手の清原博和が覚せい剤取締法違反で警視庁に逮捕されたのだ。 たしかに清原はこの間、ずっと覚せい剤使用が強く疑われてきた。2014年3月には「週刊文春」(文藝春秋)が清原の覚せい剤使用疑惑を報じているが、記事は、その異様な言動、覚せい剤の禁断症状の治療のために足立区の精神病院に極秘入院していたことまでが詳細に書かれたものだった。 この「文春」記事は各方面に波紋を呼び、清原はその後、テレビなど表舞台からその姿を消した。 「『週刊文春』の報道以降、清原に近い関係者の間でも覚せい剤使用は確実だといわれ、野球評論家としてだけでなく、テレビ局も清原を起用することを自粛しました。マスコミも逮捕Xデーが間近だとして、清原や当局の動向を注視していた」(週刊誌関係者) だが、その後、清原は病院への入院が持病の糖尿病の悪化だった、1日1回インシュリン注射もしていると反論。実際に、文春が予言していた逮捕のないまま時間が過ぎ、記事は誤報だったのではないかという見方も強くなっていった。 そして、文春報道から1年ほど経った15年4月、清原は『中居正広の金曜日のスマたちへ』(TBS系)でメディアに復帰する。その後も、6月には『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)、7月には『FNS27時間テレビ』(フジテレビ系)、8月に『ダウンタウンなうSP』(フジ系)、11月に『ダウンタウンDX 2時間SP』(日テレ)など、さまざまなバラエティ番組に出演。同時期に、石橋貴明やローラと共演したDMM.com証券のCMの放映も始まった。 年が明けてからも、1月7日 に『バイキング』、1月24日に『ワイドナショー』(ともにフジ系)と立て続けに登場している。 しかし、実はこの間も、警察当局は清原の内偵を続けていた。その情報は一部メディアもキャッチしており、昨年末には「文春が年明け、“清原逮捕”の記事を打つらしい」という情報がかけめぐったこともあった。 にもかかわらず、不祥事にもっともナーバスなはずのテレビ局はこの疑惑の渦中にある元プロ野球選手を起用し続けたのである。その背景には、大手プロダクションの存在があった。 「清原のバックに大手プロダクションのケイダッシュの川村龍夫会長がついたんです。川村会長は“芸能界のドン”バーニングの周防郁雄社長の兄貴分的存在で、周防社長以上の強面。その川村会長の号令で、清原の復帰働きかけがテレビ各局に行われたらしいんです」(テレビ局関係者) しかし、その結果が予想通りの覚せい剤所持での逮捕――。疑惑の元野球選手を見切り発車的に起用してしまったテレビ局の責任が問われることは確実だろう。 だが、清原逮捕でもうひとり、テレビ復帰を助けたとバッシングに晒されそうな人物がいる。それは他でもない、SMAPの中居正広だ。 清原のテレビ復帰のベースをつくったのは、ケイダッシュであることはもちろんだが、それを強力に後押ししたのが、熱烈な巨人ファン、清原ファンを自認する中居だった。 SMAPの独立騒動の最中の1月15日、当の清原がブログで中居にこんな感謝の言葉を送っている。 〈SMAPの中居君の話題が… 自分の苦しい時 沢山の方々に 自分のことをテレビに出演出来るよう 言ってくれた そして、 金スマ出演(略) ありがたい〉 たしかに中居がいくつかの番組に清原出演を働きかけていたのは事実のようだ。清原が薬物報道から最初にテレビ復帰したのは中居の『金スマ』だったし、『27時間テレビ』では特別ゲストとして登場した清原が中居とがっちり握手し抱き合い、番組内でも清原出演が「中居たっての希望」であると何度も強調されていた。清原が8月と年末に出演した野球番組『World Baseball エンタテイメントたまッチ!』(フジ系)も中居がMC。また、『ダウンダウンなう』にしても中居が親しい関係の松本人志経由で清原起用に動いたといわれている。 もっとも、中居は清原ファンではあったが、個人的に親しかったということではないようだ。むしろ、清原押しは、SMAP独立問題との関係があったのではないかといわれている。 「中居は芸能人や有名スポーツ選手の共演者とほとんど私的な付き合いをしないので有名ですからね。清原とも飲みに行ったことすらないはずです。清原を後押ししたのは、ケイダッシュに頼まれたのがきっかけのようですよ。ケイダッシュといえば、SMAPと飯島マネージャーが独立した際の引受け先とされていたプロダクションですからね。もちろん、中居が心情的にも清原の大ファンで同情したというのもあったでしょうが、その関係も大きかったはずです」(芸能関係者) そういう意味では、中居もある意味、巻き添えを食った被害者なのだが、しかし、場合によっては、今後、バッシングの矛先が中居に向けられる可能性はある、と週刊誌記者が語る。 「もちろんこれまでだったら、どのメディアでも清原逮捕と中居を結びつけて報道するなんてことはあり得なかったし、中居の存在にすら触れることはなかったでしょう。しかしSMAP独立騒動後の現在は状況が大きく違います。ジャニーズ事務所は独立の首謀者として中居を位置づけ、今後は厳しく対処し、マスコミからは守らないと言われています。こうした事務所の姿勢からマスコミも中居スキャンダルは“解禁”と解釈しているほどです。そう考えると、清原と中居の“個人的”関係などが週刊誌で報じられる可能性はゼロではない。清原に暴力団との関係などが出て来れば、どんどん印象は悪くなる」(週刊誌記者) 清原逮捕で、懸念されていたジャニーズ事務所による中居叩きがいよいよ始まるのか。覚せい剤汚染の深層とは別に、メディアの動きにもぜひ注意を向けていきたい。 (時田章広) オヅラさんは、相変わらず「ズレ」た発言で笑わせてくれますよ。 「巨人に行って、生え抜きの選手がいてきつかったんだと思う。」 オヅラさんは、生えてきたのが抜けて苦しい思いをしたので、清原の心情が分かるんでしょうね。(笑) 清原容疑者「巨人に行って歯車狂った」 デイリースポーツ更新日:2016/02/03 フジテレビ系「とくダネ!」の小倉智昭キャスター(68)が3日、覚醒剤を所持していたとして逮捕された元プロ野球選手、清原和博容疑者(48)について「彼は見るからに怖そうだし、本当に近付きがたい存在なんですが…でも実際に話すと優しいし、気も小さい」と素顔明かした。 新人時代から清原容疑者を応援し続けてきた小倉キャスター。「ホント、スーパーヒーローだったんですよ。残念だねえ」と大きなため息をついた。 14年9月に、14年連れ添ったモデルの亜希とも離婚。2人の息子の親権を譲った。「だから離婚して数カ月してお子さんたちと食事をしたときに電話をくれて、泣いてるんですよ『会えてうれしかった。子どもたちのためにも頑張らないといけない』と言っていたんですよ。だからなおさら、なんで踏み止められなかったんだ」と悔しさを隠しきれなかった。 清原容疑者は96年にFAで西武から巨人に移籍。「巨人に行って、生え抜きの選手がいてきつかったんだと思う。だから体作りをして、それが負担になってケガしたりとか…そういう人生の転機で歯車が狂っちゃったのかな」と推測。「FAじゃなくて、PL学園出てすぐに行っていたら、いい野球選手、実生活を送れていたかも」と語った。 またPL時代にKKコンビとしてならした桑田真澄氏との関係を聞いたところ「何があったのか電話で1時間半位しゃべって、さらに封書で丁寧な言葉で字を書いて送ってくれたこともあった」と明かした。 野球界はキャンプが始まったばかり。「プロ野球界も絶望感にうちひしがれていると思う。無冠の帝王だけど、残した記憶は素晴らしいからね。野球賭博もあったばかりだし…」と、球界へのダメージを心配していた。
 

飯島愛、ASKA、清原らの覚醒剤相関図

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)23時02分0秒
編集済
 


飯島愛、ASKA、清原らの覚醒剤相関図
激裏GATE PRESS

  昨年逮捕されたASKA、そして謎の死を遂げた飯島愛らとは
 共通の運転手、そして共通の主治医だった事が発覚。

 飯島愛の元付き人=ASKAの元運転手=清原の現運転手という
 不気味な共通点。この運転手、飯島愛の付き人となるべく
 個人事務所に潜りこみ、飯島の信頼を得、合鍵を渡されて
 部屋の掃除や運転手もしていたという。

 2008年、飯島愛は住んでいた渋谷のインフォスタワーで死亡から1週間後
 腐乱死体で発見された。
 引退の理由は「体調不良」と公表していたが、同時に
 「事務所のスタッフに1億円近くを持ち逃げされた」との意味深な
 コメントも。その後、ASKAの運転手を経て、清原の運転手をしていたようだ。

 そしてASKAがアンナカを処方されてた病院は
 清原が現役時代から通っていた「東京健康クリニック」だという。

 取り調べ中の清原は入手ルートについては口をつぐんでいる。
 しかし4台の携帯電話が押収され解析されつつあるという。
 狂人となったASKA、死に至った飯島愛。
 テレビからは閉め出され、離婚、愛人から見捨てられ
 マンションも売却、逮捕。
 しかし、すべてを呑み込む地獄の門はまだ開いたばかりだ。



 

甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(6)URへの口利きで秘書は逮捕されるのか?

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)16時24分23秒
編集済
  甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(6)URへの口利きで秘書は逮捕されるのか?

小誌先週号では、甘利事務所の清島氏と鈴木氏が、URへの働きかけを語る録音の一部を紹介した。その早刷りが永田町に出回った一月二十七日、首相官邸の最高幹部は、安倍首相にこう進言したという。
「警察の感覚なら、秘書は確実に逮捕されます。(取調べが始まれば)『甘利さんの認識も少しあった』などと喋らされますよ」

 事の発端は一三年五月、一色氏が清島氏にURとの補償交渉について相談したことだった。この時、清島氏はURに内容証明を送ることを提案し、翌六月、UR本社にベテラン秘書を向かわせる。その結果、S社は約二億二千万円の補償金を得たのだった。
 URは「補償金が吊り上げられた事実はない」と説明するが、会計検査院は補償金額の妥当性について検査を開始している。
「補償金が出たのは、甘利事務所の口利きのおかげ。そのお礼として、一三年八月、大和事務所で清島氏に現金五百万円を渡したのです」(一色氏)
 そのうち、百万円が神奈川県第十三選挙区支部、さらに百万円が大和市第二支部の政治資金収支報告書に記載されているが、残りの三百万円は不記載だった。
 清島氏は一月十六日、小誌の取材に「それは確かめさせて下さい。計上ミスしたかもしれない」と動揺しながら答えたが、実際は、清島氏が「手元で管理し、費消してしまった」(甘利氏の会見での説明)。
「甘利事務所には政治家になる秘書が多い中、清島氏は野心の乏しいタイプ。それだけに甘利氏も信用していたのでしょう。一方、鈴木氏は年上にもタメ口で、合コン好き。最近急に羽振りが良くなったと噂されていましたね」(自民党関係者)
 一四年に入ると、S社の敷地に埋まる産廃をめぐり、URとの間で三十億円規模の補償交渉に発展する。
 一色氏からの賄賂を受け取り続けた清島氏や鈴木氏は、昨年十月から今年一月の三カ月間で十回にわたってUR職員と面談していた。
 URは、小誌記者の質問にこう回答した。
「(十回以上の面談は)頻繁にはない。正直申し上げれば、千葉からわざわざ大和まで足を運ぶわけですから、回数が多いということでは、あまり嬉しい話ではございませんでした」
 事実、URの調査結果でも、鈴木氏の〈何の問題があるのか、機構は至って前向きな対応だと感じるが〉〈少しイロを付けてでも地区外に出ていってもらう方が良いのではないか〉との発言が明るみに出た。
 清島氏も〈事務所に相談したが、それでも金額の増とはならなかった。ということでも事務所の顔は立つ〉などと、しきりに事務所の顔を立ててほしいとURに要求していた。
 清島氏は、小誌の取材に「そんなふうに書かれたら、辞めないといけない」と漏らしていたが、言葉通り二人の秘書は辞表を提出した。
「鈴木氏は、報道後も『心配させてすいません!』と明るい様子だったが、挨拶回りもなく議員会館から姿を消した」(秘書仲間)
 だが、辞表を出して一件落着というわけではない。
 元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎氏は「検察が捜査を躊躇する理由は一つもない」と語る。
「秘書二名については、比較的立件が容易な政治資金規正法違反と業務上横領を“入り口事件”として身柄確保すればいい。しかも、現金受領の事実や異例の面談回数、総務部長の同席など材料も揃っています。与党の有力議員である甘利氏の影響力を考えれば、あっせん利得処罰法違反まで広げていくことも十分可能です」
 特捜部は、UR職員を近く事情聴取する方針だ。

「週刊文春」2016年2月11日号
 

甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(5)「賄賂1200万円」は誰が出したのか?

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)16時23分5秒
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  甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(5)「賄賂1200万円」は誰が出したのか?

「一色氏は、甘利氏や秘書たちに渡した現金や接待の総額は確実な証拠があるものだけで約千二百万円と告発していますが、その原資を巡って、怪情報が飛び交っています。スポンサーが金を出して、一色氏に渡させて、甘利氏側を嵌めたというのです。そのスポンサーの正体は古賀誠氏、小沢一郎氏、はたまた民主党だという説もあるとか」(永田町関係者)

 一色氏はスポンサーの存在を一笑に付す。
「原資は、S社の金及び私個人の金です。正確に説明しましょう」
 まずは、千二百万円のうち、二〇一三年八月二十日に、大和事務所で清島氏に渡した五百万円について。
「これは、S社のお金です。この日、持参したのは一千万円でしたが、五百万円を清島氏が返してきたため、計五百万円分の領収書をS社の名前でもらいました」
 この五百万円のそもそもの原資は、URから支払われた約二億二千万円の補償金だった。
「八月六日にURと『物件移転契約書』を交わし、URから補償金の一部が八月二十日に振り込まれた。この日に金を引き出した私は、口利きのお礼を渡すべく、大和事務所に車で向かったのです。渋滞して時間がかかり、イライラしたことを昨日のことのように思い出します」
 このS社の五百万円以外の原資は、すべて一色氏の金だという。
「清島氏や鈴木氏に“経費”として渡したり、キャバクラやフィリピンパブなどで接待する際に使いました。資料が膨大で未整理のものもありますが、例えばURとの交渉経費として、清島氏には十五万円を、計五十三回渡しています。二十万円のときもあり、鈴木氏の経費もありますから、八百万円以上です。その他、飲食代や選挙応援資金などを合わせると、数千万円に上るはずです」
 一色氏が告発する理由の一つになった清島氏や鈴木氏のタカリについては、こう振り返る。
「最初に行ったのは、清島氏が常連のキャバクラでした。数万円だった代金が、何度か通ううちに十万円台になった。席に付いた女の子たちにドンドン注文させたからです。私が払うとわかってから、やりたい放題でした」
 甘利氏に大臣室と大和事務所で渡した合計百万円も一色氏が出したという。
 しかし、これだけ多額の自腹を切って、一色氏にどれだけリターンがあるのか。
「URとS社の交渉がまとまれば、補償額の一定割合を『成功報酬』としてもらうことになっていました。
 私にとって、甘利事務所に使った金は必要経費。口利きがうまくいけば、つぎ込んだ数千万円をはるかに上回る報酬が入ってくるはずでしたから」

「週刊文春」2016年2月11日号
 

甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(4)告発者とS社社長は甘利大臣を脅迫したか?

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)16時21分24秒
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  甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(4)告発者とS社社長は甘利大臣を脅迫したか?

「今回の報道があってから、A秘書に対しまして、S社社長から、毎日のように『口裏合わせをしよう』との電話があったとの報告を受けています」
 甘利氏は辞任会見で、S社社長とA秘書(清島氏)との間に、こんなやりとりがあったと明かした。

「発言を聞いて、S社社長と、その会社の総務担当者である一色氏が組んで、甘利氏側を脅していたという印象を持った記者も多かった」(社会部記者)
 それもそのはず。甘利氏の説明では、S社のT社長は、こんな恫喝めいた発言をしたと言うのだ。
〈もし、ちょっと動いてみて、大臣が口利いてでも、もしうまくなるようであれば、その返事をいただいて、(略)何とかなるっていう風にやって、言ってくれれば絶対止める〉
 T社長は、甘利氏がURに口利きし、補償交渉を決着させてくれれば見返りに、小誌記事を止めると言っているようにとれる。
 だが、実はT社長は小誌に対し、真逆の内容を語っていた。一月十八日、T社長は、自身の携帯電話の着信履歴を見せながら、こう言ったのだ。
「(清島氏から電話があったのは、一月十六日)二十一時四十二分が最初です。次は二十二時九分。(翌十七日は)九時十四分だよ。朝からさあ、寝かしてくれないんだよね。十六時四十一分、十六時五十二分、十七時八分と、着信履歴だけでこんなに並んでますよ」
 一月十六日は、小誌が清島氏に二度にわたり疑惑を取材した日だ。二度目の取材が終わったのが、二十一時十分頃。甘利氏は会見で、清島氏から小誌取材の報告を受けたのは「十七日の夜」だと明かしている。
 つまり清島氏は、甘利氏に報告するより先に、T社長に何度も電話をかけていたことになる。
「清島さん焦ってたよ。早く会ってくれって。土曜日(十六日)から大騒ぎになってるから。電話切らねえんだよ」(T社長)
 清島氏は十八日の十六時にS社に来社しT社長と面会する予定だった。しかし、直前に「会うことができなくなった」と連絡があったという。
「『だったら、さっさと言え、この野郎』って、えらい怒ったよ、俺。『お前が来るっていうから、俺(会社に)いたんだ』って」(同前)
 T社長は二十日、小誌に対し面会キャンセル後も清島氏から電話が度々かかってきたと語った。
「(清島氏は)すごくずっと心配してきて電話をくれるよ。清島もだし、大臣が一番心配してるらしいよ、俺のこと。迷惑かけたっつってすごく謝ってんだって。『大臣が会いたがってます』『俺も(大臣に)会いたいな』って言うと、『会わせたいんですが、今は会えないんです』って言い方をしてるんだけども」(同前)
 T社長の言い分をそのまま信じれば、清島氏が一方的に脅迫されていたとは信じがたい。
 一方、一色氏はこの頃、小誌記者にT社長への不信感をこう漏らしていた。
「社長の行動、おかしくないですか? 文春で私が告発することを了承しているにも関わらず、今も清島氏と頻繁に連絡を取り合っているのは一体どういうことなのか」
 実は、第一弾の記事が発売された直後、一色氏とT社長の関係は、終わりを迎えたという。
「社長と最後に電話で話したのは一月二十五日。『弁護士が、特捜部が動くかもしれないから、もう一色やマスコミと連絡をとらないよう言われた』と伝えてきました。その日の二十二時五十六分、今度はLINEが来て〈電話でられない。話は留守電かLINEに〉とメッセージが届きました」(一色氏)
 さらに、S社からも絶縁されたことがわかったのが、一月二十六日のことだ。
「昨年末、私がURに情報公開請求をしたことは既に述べましたが、これはS社の総務担当者として行ったものでした。その開示予定日が二十七日でした。しかし、その前日の二十六日にURから連絡がきて、『一色さんはS社とは関係ない方なので、情報開示はできません』と言われたのです。つまり社長は、一色はもうS社の人間ではないとURに言ったとしか考えられません」(同前)
 目下、雲隠れ中のT社長に電話し甘利氏の「口裏合わせ」発言について聞くと、
「あれには前段があるんです。秘書から相談もされていましたが、そんなこと記事にするのはやめて下さい。俺はもともと甘利が本当に好きでしたから」
 清島氏とT社長、どちらがウソをついているのか。

「週刊文春」2016年2月11日号
 

甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(3)甘利大臣は50万円をポケットに入れたか?

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)16時19分37秒
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  甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(3)甘利大臣は50万円をポケットに入れたか?

「政治家以前に人間としての品格を疑われる行為であります。そんなことをするはずはありません」
 甘利氏が一月二十八日の辞任会見で語気を強めて否定したのは、現金五十万円をスーツの内ポケットに入れたという証言だった。

「今日は私の晴れ舞台だから。でも、額に手をあてただけでフラッシュが百回くらい焚かれるんだよな」
 参院本会議の最中、そう言って笑顔を見せていたという甘利氏。だが、会見が始まると、一転神妙な表情で、二度にわたり、自身が現金五十万円を受け取っていたことを認めた。
 一度目は、一三年十一月十四日。一色氏は、S社のT社長とともに大臣室を訪れた。甘利氏によれば、
「社長らが退出した後に、秘書から『紙袋の中に熨斗(のし)袋が入っていました』と報告があった。それで、私から秘書に『政治資金としてきちんと処理するように』と指示をした」
 だが、一色氏はこう反論する。
「事実は違います。T社長は木の箱に入ったとらやの羊羹と一緒に、私が用意した普通の白い封筒に包んだ現金五十万をその場で甘利氏に手渡しました。熨斗袋ではありません。そして大臣はその白い封筒をスーツの内ポケットに仕舞ったのです。そもそも口利きという危ない行為に対するお礼なのですから、品格云々は言い訳にもなりません」
 同席したT社長も一月十八日、小誌にこう証言している。
「一色さんから封筒を預かり、(羊羹を入れた)木の箱の上に乗っけました。清島さんが大臣に耳打ちすると、(大臣が)『あーはい、はい』と言っていた記憶があります。(それで)懐に入れたような、内ポケットに。もう分かっていたような感じで、中身も見ないで、ポッと入れたから。
 その日は、TPPの話とかで四十分くらい喋りました。後日、清島さんに『何かして欲しいことない?』と聞くと、『甘山会の千葉支部を作ってくれたら嬉しいですね』と言われて、異例の早さ、五カ月で(千葉支部を)作ったんです」
 二度目の現金授受は翌一四年二月一日、大和事務所で行なわれた。
 実は、甘利氏は大和事務所の五十万円については、内ポケットに入れたことを会見で一度も否定していない。小誌報道が異なると強調したのは、一度目の大臣室の授受における“ポケット疑惑”だけなのだ。
 二回目の時はどうか、と追及されても、「開けていないですから、中が何かわかりませんけど」と最後まで明確な回答を避けた。また、清島氏も「(一色氏は)帰る前に甘利大臣に五十万円の入った封筒や手土産を渡したと思う」と弁護士の聴取に答えているという。
 一色氏が振り返る。
「現金五十万円は、横浜銀行の封筒に包み、それを少し大きめの白い封筒に入れていました。清島所長に『例のものを』と促され、大臣に白い封筒を手渡すと、甘利氏は『パーティ券にして』とおっしゃいました。私が『個人的なお金ですから(受け取って下さい)』と言うと、大臣室の時と同様に、内ポケットに封筒を仕舞ったのです」
 一色氏はこの場で、厚さ数センチの資料を手に、産廃撤去をめぐるURとのトラブルを甘利氏に直接相談したという。事実、甘利氏は会見でも「S社の敷地内から『産廃が出て困っている』との相談がありました。私は『地主が責任を持つんじゃない』と話したように思います」と述べていた。
「およそ三十分の会話のほとんどが産廃撤去の件です。大臣からも『これはどういうこと?』と幾つも質問をされました。口利きのための現金だということは、甘利氏自身がよく分かっているはずです」(一色氏)
 また、甘利氏は計百万円の現金授受について、〈一四年二月四日にS社からの百万円の寄付金の記載がある〉と説明。最初の五十万円は〈舌癌騒動で入金が遅れた〉が、政治資金として適切に処理したと語った。T社長はこの記載について、小誌に明確に否定していた。
「パーティ券を買ってくれ、とかなんだかんだカネを出しているけど、最初の五十万円はあくまで一色さんの懐から出ているから、それはあり得ない。(『献金として処理する』という言葉も)全然聞いていません」
 一色氏はこう締めくくる。
「二月四日付の百万円は私が渡した二度の五十万円とは別に、S社が献金したものです。甘利氏のこの説明もまた事実ではありません」

「週刊文春」2016年2月11日号
 

甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(2)なぜこの時期に文春から出たのか?

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)16時17分53秒
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  甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(2)なぜこの時期に文春から出たのか?

「安倍政権が直面した最大のスキャンダル」(一月二十八日付、英BBC放送・電子版)と言われるほどの重要閣僚の辞任劇だけに、さまざまな揣摩臆測(しまおくそく)が乱れ飛び、実名告発した一色武氏(62)へのバッシングも相次いでいる。
 小誌は、今回の疑惑報道にあたって、何よりも「ファクト」を重視してきた。一色氏の証言を裏付けるべく、客観的な物証の提供を求め、かつ小誌独自でも長期間、検証取材を行ってきた。
 だが、その証拠の多さを逆手にとって、「録音されていたり写真を撮られていたり、罠を仕掛けられた感がある。罠のうえに周到なストーリーが作られている」(高村正彦自民党副総裁)などと批判をする声もある。一色氏が語る。
「甘利氏は大臣を辞任されるという非常に重い決断をされた。しかし、一方で事実と異なる説明も少なくない。また、私に対する批判もあることは承知しています。大臣辞任に至った一連の告発を総括する意味で、今回経緯について丁寧に説明することにしました」
 一色氏に対する批判で最も多いのが、高村副総裁に代表される「罠に嵌(は)めた」という見方だ。
 また、そうした声に乗る形で、〈建設会社幹部を帯同し、甘利氏の秘書を隠し撮りした文春の取材手法にも物言いが付いた〉(二月一日付、夕刊フジ)と事実誤認の報道もある。
「まず文春に、金銭授受の写真を撮ってくれと依頼したことなどありません。また、文春から撮影のために金を渡してくれと頼まれたこともありません。私は、甘利氏の公設第一秘書で大和事務所所長だった清島健一氏(39)に毎週のように金を渡しており、いわばルーティンでした」(一色氏)
 小誌は、昨年八月、一色氏からURへの口利きに伴う甘利事務所への金銭提供の話を聞いた後、独自に裏付け取材を続けてきた。
 一色氏の証言が荒唐無稽に感じられたため、慎重に一色氏や清島氏の行動確認を続けてきたことは、先週号でも書いた通りだ。金銭授受の写真についても、毎週ほぼ同じ時刻に会合するという飲食店を何度も張り込んだ結果、ようやく店内での撮影に成功した。
 疑惑の核心は、国務大臣や公設秘書が、その権力を利用して、口利きし金銭を受領していたというものだ。写真が、“犯行現場”を立証する上でも極めて重要であることは言うまでもない。
 元東京地検検事の落合洋司弁護士が語る。
「まず、考慮すべきは立場です。現職大臣、およびその公設秘書ということで公共性、公益性が高い。取材は公共性、公益性が高い対象者の問題点、違法性を世に知らしめるためであり、きわめて正当性は高いといえます」
 また、多数の録音やメモについて、一色氏はこう説明する。
「私が、URとの交渉だけを詳細に記録していたというなら『嵌めた』と言われても仕方がないでしょう。しかし、私は、もう何十年もの間、日記やメモをつけてきました。また、『言った、言わない』を避けるために、さまざまな交渉を録音するようにしてきました。URとは別件の交渉も、録音やメモなどが残っているのです。録音も、文春から依頼されて録ったものではなく、以前から私が記録用に保管していたものです」
 前出の落合弁護士は語る。
「事務所内での会話についてはプライベートとはいえず、飲み屋での会話録音も、一色氏の資金提供で飲み食いし、仕事の話をしている以上、プライベートとはいえない。よってプライバシー侵害にはあたりません。大臣やその公設秘書という公人中の公人の悪事を明るみに出したいという目的で、提供した録音を基に報道機関が記事にすることには公益性があります」
 一色氏は「嵌めた」説にこう反論する。
「甘利氏を嵌めて、実名告発して、私に一体何の得があるのでしょうか。
 甘利氏を嵌めるために、長期にわたる補償交渉や多額の金銭授受、数十回の接待を行うのは、金と時間、労力に見合いません。
 URへの口利きを依頼し、金銭を渡した以上、捜査対象になる可能性は承知の上です。もちろん、聴取の要請があればきちんと応じるつもりです。
 捜査対象になりかねないリスクを冒しても、告発に踏み切ったのは、およそ三年にわたり数千万円をつぎこんできたプロジェクトが、いいようにタカられていただけだったという怒り、そして悔しさからです。
 もちろん私も口利きを頼んでおり、ほめられたものではありませんが、権力者が逃げ切り、私のような者だけが切り捨てられる――そんなことはとても許せなかったのです」

「週刊文春」2016年2月11日号]
 

甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(1)告発者は甘利大臣を嵌めたのか?

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)16時16分52秒
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  甘利大臣辞任スクープ すべての疑問に答える(1)告発者は甘利大臣を嵌めたのか?

 小誌が二週にわたって報じてきた独立行政法人都市再生機構(UR)への口利きに関する甘利明事務所の「1200万円収賄疑惑」は、一月二十八日、甘利明TPP担当大臣(66)の辞任という急展開を見せた。

「安倍政権が直面した最大のスキャンダル」(一月二十八日付、英BBC放送・電子版)と言われるほどの重要閣僚の辞任劇だけに、さまざまな揣摩臆測(しまおくそく)が乱れ飛び、実名告発した一色武氏(62)へのバッシングも相次いでいる。
 小誌は、今回の疑惑報道にあたって、何よりも「ファクト」を重視してきた。一色氏の証言を裏付けるべく、客観的な物証の提供を求め、かつ小誌独自でも長期間、検証取材を行ってきた。
 だが、その証拠の多さを逆手にとって、「録音されていたり写真を撮られていたり、罠を仕掛けられた感がある。罠のうえに周到なストーリーが作られている」(高村正彦自民党副総裁)などと批判をする声もある。一色氏が語る。
「甘利氏は大臣を辞任されるという非常に重い決断をされた。しかし、一方で事実と異なる説明も少なくない。また、私に対する批判もあることは承知しています。大臣辞任に至った一連の告発を総括する意味で、今回経緯について丁寧に説明することにしました」
 一色氏に対する批判で最も多いのが、高村副総裁に代表される「罠に嵌(は)めた」という見方だ。
 また、そうした声に乗る形で、〈建設会社幹部を帯同し、甘利氏の秘書を隠し撮りした文春の取材手法にも物言いが付いた〉(二月一日付、夕刊フジ)と事実誤認の報道もある。
「まず文春に、金銭授受の写真を撮ってくれと依頼したことなどありません。また、文春から撮影のために金を渡してくれと頼まれたこともありません。私は、甘利氏の公設第一秘書で大和事務所所長だった清島健一氏(39)に毎週のように金を渡しており、いわばルーティンでした」(一色氏)
 小誌は、昨年八月、一色氏からURへの口利きに伴う甘利事務所への金銭提供の話を聞いた後、独自に裏付け取材を続けてきた。
 一色氏の証言が荒唐無稽に感じられたため、慎重に一色氏や清島氏の行動確認を続けてきたことは、先週号でも書いた通りだ。金銭授受の写真についても、毎週ほぼ同じ時刻に会合するという飲食店を何度も張り込んだ結果、ようやく店内での撮影に成功した。
 疑惑の核心は、国務大臣や公設秘書が、その権力を利用して、口利きし金銭を受領していたというものだ。写真が、“犯行現場”を立証する上でも極めて重要であることは言うまでもない。
 元東京地検検事の落合洋司弁護士が語る。
「まず、考慮すべきは立場です。現職大臣、およびその公設秘書ということで公共性、公益性が高い。取材は公共性、公益性が高い対象者の問題点、違法性を世に知らしめるためであり、きわめて正当性は高いといえます」
 また、多数の録音やメモについて、一色氏はこう説明する。
「私が、URとの交渉だけを詳細に記録していたというなら『嵌めた』と言われても仕方がないでしょう。しかし、私は、もう何十年もの間、日記やメモをつけてきました。また、『言った、言わない』を避けるために、さまざまな交渉を録音するようにしてきました。URとは別件の交渉も、録音やメモなどが残っているのです。録音も、文春から依頼されて録ったものではなく、以前から私が記録用に保管していたものです」
 前出の落合弁護士は語る。
「事務所内での会話についてはプライベートとはいえず、飲み屋での会話録音も、一色氏の資金提供で飲み食いし、仕事の話をしている以上、プライベートとはいえない。よってプライバシー侵害にはあたりません。大臣やその公設秘書という公人中の公人の悪事を明るみに出したいという目的で、提供した録音を基に報道機関が記事にすることには公益性があります」
 一色氏は「嵌めた」説にこう反論する。
「甘利氏を嵌めて、実名告発して、私に一体何の得があるのでしょうか。
 甘利氏を嵌めるために、長期にわたる補償交渉や多額の金銭授受、数十回の接待を行うのは、金と時間、労力に見合いません。
 URへの口利きを依頼し、金銭を渡した以上、捜査対象になる可能性は承知の上です。もちろん、聴取の要請があればきちんと応じるつもりです。
 捜査対象になりかねないリスクを冒しても、告発に踏み切ったのは、およそ三年にわたり数千万円をつぎこんできたプロジェクトが、いいようにタカられていただけだったという怒り、そして悔しさからです。
 もちろん私も口利きを頼んでおり、ほめられたものではありませんが、権力者が逃げ切り、私のような者だけが切り捨てられる――そんなことはとても許せなかったのです」

「週刊文春」2016年2月11日号
 

清原容疑者の事務所コメント全文

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 4日(木)09時00分45秒
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  清原容疑者の事務所コメント全文


 

シャープを壊した「四人組」 債務7千5百億円、リストラ3千人

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 3日(水)19時56分53秒
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  シャープを壊した「四人組」 債務7千5百億円、リストラ3千人

シャープが喘いでいる。再建のメドは全く立たず、身売り話が絶えない。家族経営の会社としてスタートし、一時は売上高三兆円を叩き出すまでに成長した日本を代表する企業に何が起こったのか。歴代社長を支えた側近の生々しい証言で明かされる蹉跌と転落の歴史。

 一月十一日、日経新聞朝刊の一面トップに、こんな見出しが躍った。
〈シャープ再建 国主導で 革新機構、2000億円出資〉
 シャープが官民ファンドの産業革新機構と協議している経営再建案の概要を伝えるもので、機構は過半数の株取得を目指しており、その出資額は二千億円規模の見通しだという。別の報道では、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業が七千億円でシャープ買収、M&Aを仕掛けるとも伝えられた。
 昨年九月末の時点で、シャープの有利子負債は約七千五百億円に達しており、三千人規模のリストラも行ったが、依然として経営危機を脱する見通しは立っておらず、身売り話ばかりが先行する状況だ。
 それに対し、当事者のシャープは曖昧なプレスリリースを発表するだけだ。
《当社液晶事業の分社化や産業革新機構による当社への出資並びに主力取引銀行への金融支援の要請などに関する報道がありましたが、これらは当社の発表に基づくものではありません。当社は現在、経営再建に向けて、液晶事業の構造改革などについて複数社と協議を継続しておりますが、現時点で決定した事実はありません》
 ある金融記者は、同社の髙橋興三社長の最近の様子をこう語る。
「いまのシャープは『まな板の上の鯉』で、会社としても社長としても出来ることは何もない。もともと当事者能力はゼロの髙橋さんでしたが、することがないので、すっきりした表情でした。むしろ前よりも元気がいいくらい」
 経営危機に陥っている会社のトップの姿とは信じられないが、いったいシャープで何が起こっているのか。ある中堅社員は筆者の取材にこう漏らした。
「決められないのは、シャープという会社のカルチャーという気もします」
 この言葉の意味を理解するには、シャープの歴史を繙(ひもと)く必要がある。
 シャープの創業者である早川徳次氏が金属加工業の会社を創業したのは、一九一二年。ベルトのバックルやシャープペンシルなどのヒット商品で成功したが、関東大震災で家族と工場を失い、早川氏は再起を期して大阪へ移る。そこで出会った“孤児”が後に二代目社長となる佐伯旭氏だ。早川氏に引き取られ、入社した佐伯氏は仕事に励み、二十九歳の若さで取締役、一九七〇年には社長に就任。以降、佐伯氏は社長を十六年務め上げ、「佐伯時代」を築き上げることになる。
 佐伯氏は、若い技術者の進言をとりいれて、コンピュータや半導体など将来性のある分野に積極的に投資。さらに社長直轄の「緊急プロジェクト」を立ち上げる。これは、横断的な連携が必要な緊急のテーマに関して、全社から最適な人材を集めたプロジェクトで、後に電子手帳の「ザウルス」などのヒット商品が生まれている。
 また緊プロでは、プロジェクトを通して人材育成の効果も表れた。「同じ釜のメシ」を食った彼らの間には同志的な結びつきも生まれ、三代目社長となる辻晴雄氏や四代目社長となる町田勝彦氏といった人材も育っていった。
 佐伯氏は、一九八六年に会長へと退くが、その存在感が希薄になることはなかった。佐伯氏の女婿の町田氏が社長時代、同じ敷地に住む佐伯氏のもとを訪ねて経営について話し合うのが常だったという。シャープという会社の本質は、「家族経営」なのである。
 実は、この家族経営ゆえの限界が、今日のシャープの苦境へと繋がっているのだ。
 創業者の早川氏は、こんな経営理念を残している。
《いたずらに規模のみを追わず、誠意と独自の技術をもって広く世界の文化と福祉の向上に貢献する》
 規模のみを追わず、の意味するところは、身の丈に合った経営に他ならない。

「液晶の投資は亀山で終わり」

 だが創業者精神(経営理念)は語り継がれても受け継がれないのが世の常だ。
 町田社長時代に「身の丈に合った」家族経営が揺らぎだす。一九九八年に四代目社長に就任した町田氏は、「二〇〇五年までに国内で販売するテレビをブラウン管から液晶(パネル)に換える」と宣言した。
 それまでシャープでは、液晶ディスプレイはパソコンモニターが中心だったが、これをテレビへと大きく舵を切ったのである。
 そして、テレビ用の液晶パネル工場を亀山に建設するが、こうした流れに危機感を覚えたのが、最高顧問に退いていた佐伯氏だ。〇二年二月、亀山工場の生産本部長に就任する役員の谷善平氏を呼び出し、こう自分の考えを伝えたという。
「いいか。液晶の投資は、亀山で終わりだ。君の課題は亀山の十万坪の敷地をどう使うか、考えることだ」
 だが〇四年に亀山第一が稼働すると、谷氏は代表取締役副社長を退任した。顧問に退き、佐伯氏の意向は現場には伝わらなかった。
 当時、液晶事業では取締役の片山幹雄氏が奮闘していたが、〇六年、片山氏は佐伯氏の意に反して液晶への投資を続け、亀山第二を建設する。そして翌年、四十九歳の若さで、シャープの五代目社長に就任するのだ。
 どうして町田氏は、片山氏を止めなかったのか。
 町田氏に仕えた経験のあるシャープOBは、こんな人物評価をしてみせた。
「町田さんは、一見すると粗野に見えるかも知れませんが、神経はとても繊細です。他人の意見もよく聞く。たとえ自分の考えが決まっていても、他人の意見を聞いたうえで判断されます。逆に、まだ決めていない時は(他人の意見が)正しいと思われても、すぐには判断されません。片山さんに対しても、本人が気づくまで待つというところがあったように思います」
 それに対し、片山氏は自他共に認める「超強気」人間である。しかも進言嫌いのため、有意義な意見であっても進言者をトバしてしまうことが少なくない。
 町田氏が「家康」タイプなら、片山氏は「信長」タイプだと評する声もあった。町田氏と片山氏があるプロジェクトを巡って対立した場面に立ち会った経験のある中堅社員は、その時の様子をこう話す。
「まるで仲のいい親子ゲンカでしたね。最初は反対するのですが、『お前がそこまで言うのなら、やればいい』と最後は町田さんが押し切られるパターンです」
 片山氏が社長に就任した年、シャープは〇七年三月期の連結業績で初めて売上高が三兆円を超えた。その四三%を液晶テレビと液晶パネルの売上高が占め、液晶事業の売上高は一兆円を超えるまでになっていた。
 その半面、液晶事業に依存した歪な売上げ構成は「液晶一本足打法」とも揶揄された。液晶事業の不振が、ただちに本社の業績を直撃する危うさを喩えたのだ。身の丈を考えるなら液晶事業を分社化し、本社の連結から外しておくのが経営の常道である。
 だが、町田氏が片山氏に分社化を勧めたという話は聞こえてこない。前出のOBは、その理由を推測する。
「シャープには、そもそもコア事業を分社化した経験がありません。町田さんの時代の〇五~〇六年は『勝てる場所で勝つ』がひとつの方針になっていました。自分の得意な分野で勝負する=身の丈にあった経営という理屈です」
 ましてや「液晶にあらずんばシャープにあらず」の片山氏が、分社化に応じて自らシャープから出て行くことは考えられなかった。
 この間のシャープは、リスクヘッジを決断する経営首脳を持たなかったのである。ここから、シャープの躓きが始まる。
 液晶事業の絶頂期の〇八年の九月にリーマンショックが起きる。液晶事業の不振がモロに響いて、〇九年三月期の決算は約一千三百億円もの最終赤字に陥った。にもかかわらず、液晶がシャープを大きくすると信じて疑わない片山氏はその年の十月に四千二百億円の建設費用を投じた堺工場を稼働させるのである。
 一方で液晶テレビ(パネル)は国内のみならず、サムスン、LGの韓国勢に加え、新興国・中国のメーカーも増産に踏み切っていた。

「奥田降ろし」を画策した人々

 供給過剰になれば値崩れするのは当然で、価格競争に巻き込まれれば、十分な利益を確保できない。
 一二年三月期決算でそのツケが一挙に噴出、三千七百六十億円という巨額な最終赤字を計上した。
 この非常事態にいち早く動いたのは、当時会長の町田氏だった。シャープの決算数字が確定する前に台湾に飛び、旧知の鴻海精密工業のトップ、テリー・ゴウ氏と直接交渉し、資本業務提携にこぎつけたのだ。
 堺工場は、その運営会社にテリー・ゴウ氏が個人で六百億円(四六・五%)を出資。これにより稼働率の悪かった堺工場を、シャープの連結から外すことができた。社内では「この六百億円がなければ、倒産していたかも知れません」と評価する声もあるが、一方でこんな批判もあった。
「町田氏に代表権があるとはいえ、本体への出資を含む資本業務提携を取締役会にも諮ることなく勝手に行うことが許されるのか。株主代表訴訟でも起こされたらどうするつもりなのか」
 純粋にシャープの苦境を救いたいという町田氏の気持ちは尊重されるべきだろうが、家族経営でやってきたシャープが会社の体をなしていないことを示すエピソードである。
 結局、町田氏は片山氏に液晶事業不振の責任をとって辞めるように求め、新社長に奥田隆司氏を指名したと言われるが、これも社内に困惑をもたらした。
 奥田氏はそれまで社長候補として名前が取り沙汰されたこともなく、目立った業績もなかった。何よりも問題なのは、社長に選ばれた明確な理由が分からなかったことである。ちなみに、町田氏が台湾入りした際、唯一同行を認めた役員が、奥田氏である。
 新社長の奥田氏の社内評は、あまり芳しいものではなかった。記者会見などでボロを出さないようにペーパーを必死に読む姿はいかにも頼りなかった。だが社長就任以来レームダックと揶揄されてきた奥田氏は、一二年の年末に意外な行動に出る。本社の各部署で行われる打ち上げの場に顔を出して、「来年は頑張ろうな」と声をかけて回ったのである。
 その場に居合わせたシャープ社員は、こう話す。
「正直、驚きました。そのとき、『奥田さんも、ついに腹を括ったんだな』と思いました。そして奥田さんの下で、みんなで一緒にやっていけるのではと初めて思いました」
 しかし年が明けると、事態は逆の方向へ進んでいた。役員・幹部を中心に奥田降ろしが始まっていたのである。具体的には役員OBが現役役員一人ひとりに「社長は奥田でいいのか」とヒアリングし「奥田ではダメです」という流れを作ったのだ。
「現役役員でクーデターの中心となったのが、髙橋(興三)、水嶋繁光、大西徹夫の三人です。彼らの間で誰からともなく『俺たちは三国志だな』という言葉が出たと聞きました。結局、水嶋も大西も自分が社長になりたいと言わなかったので、その場の雰囲気で『次は髙橋』となった」
 役員OBの工作を近くでみていた別のOBは、そう回想する。こうして奥田氏は一年余りで社長の座を追われ、七代目社長に髙橋氏が就任したのが、一三年六月である。
 翌一四年三月期(一三年度)決算では営業利益と最終利益で三期ぶりの黒字化を達成するが、その一年後の決算では、最終利益で二千二百二十億円と大幅な赤字に陥る。髙橋氏を近くで見てきた中堅社員は、こう指摘する。
「一四年の好業績は、堺工場を連結から外したことによりますが、この時がチャンスでした。銀行からの融資や、公募増資などで約五千億円の資金も手もとにありました。本当はそれを使って、新しくコア事業になる分野に集中投資したり、必要ない事業を切り捨てるといった抜本的な改革に着手するべきでした。でも髙橋さんは、何もしなかった。業績が良くなったので、従来の延長線上でやっていけばいいという考えでした」

「私はノーと言ったことがない」

 髙橋氏も奥田氏同様、シャープの未来像が描けていなかった。違いを挙げるなら、「けったいな文化を壊す」と宣言し、その実行のため家族経営の歴代首脳を経営の第一線から遠ざけたことぐらいか。
 複写機の技術畑の出身だが、取材を進めてもエピソードがまったく出てこない。唯一印象に残ったのは、一四年の新入社員の入社式の社長挨拶だ。
 髙橋氏は新入社員に向かって「私は入社以来、ノーと言ったことがない」と言い放ったという。この会社では、もはやイエスマンでなければ出世できないことを社長自らが高らかに宣言したも同然だった。
 二〇一五年五月、シャープは一五年から始まる新たな三カ年の中期経営計画と組織変更を発表した。「三国志」の面々は、それまでの中期経営計画がいずれも未達で終わったにもかかわらず、誰も経営責任をとらなかった。一方で、現場を統括する二人の専務、液晶を含む電子デバイス担当の方志教和氏と複写機など担当の中山藤一氏は顧問に退かされている。
 さすがに質疑応答では、記者から「経営責任をなぜとらないのか」とストレートな質問が飛んだ。それに対し、髙橋氏は新たな経営計画をやり遂げることが経営責任だと論点をすり替えた。次の記者は「髙橋さん、それで社内で求心力があると思っているのですか」と追撃した。髙橋氏は一瞬絶句し、何か言おうとしたが言葉にならなかった。
 振り返れば、家族経営から組織で動く経営への転換に失敗した町田氏、液晶事業を過信し進むべき道を誤らせた片山氏、無策のままさらに状況を悪化させた奥田氏と髙橋氏……。四人の経営者の失政は、糾弾されてしかるべきだろう。
 経営再建には経営トップと社員が「心をひとつ」にすることが何よりも肝要である。しかし経営トップが真っ先に自己保身に走るようでは、社内のモラールは上がらない。そんな空気に嫌気がさしてか会社側が募る希望退職者以外にも、若いエンジニアや中堅幹部の自主退社が相次いでいる。
 責任逃れの老人が居残った会社を税金で救う価値があるのだろうか。

「週刊文春」2016年1月28日号
 

在日韓国人?!清原和博を覚せい剤取締法違反容疑で逮捕

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 2月 3日(水)08時35分35秒
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  清原和博は在日韓国人だった!?
http://xn--cckinu6jtfufv45wa362srnaq47lfvzegcfyp6g.com/?p=2400

在日韓国人って言うか元在日韓国人だよ。
帰化してるし…。
と桑田はPL学園出身だけど、PL学園って在日韓国人の学校やん。
なんか、エラの張った典型的な朝鮮顔だし…(笑)。
韓国人の大好きな歯の総入れ替えしてるし。
本名は清さん、判りやすいでしょ(笑)

決めつけ感が半端ないw

清原和博さんは在日韓国人だという主張にまともな根拠はありませんでした。

よくある有名になった人は「在日韓国人」というレッテル張りのような感じですかね~。
だって噂の理由は・・・

・在日韓国人の多い大阪府岸和田市出身だから
・元在日韓国人だと言われている「秋山成勲」のセコンドに清原和博がついた試合で秋山が悪質な反則行為があったから
・Wikipediaに「北朝鮮国籍だったが中学の時に日本国籍に変更した」と書いてあった

清原和博、 紋々までバッチリ入れている・・。
稲○会の賭場で一時期派手に遊んでいたそうです。
疑惑は、晴れる事はなさそう。

【清原和博 薬物報道で球界&TV界から総スカの苦境生活】
2014年5月9日 9:58 AM アサヒ芸能
http://www.asagei.com/22740

【清原氏 金銭的に苦しかった?慰謝料なし、養育費&財産分与のみ】
http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/23/kiji/K20140923008977730.html







清原和博を覚せい剤取締法違反容疑で逮捕
激裏GATE PRESS

夫人との離婚、奇行と激やせ、覚せい剤使用で
逮捕直前と言われていた清原和博が逮捕された。

「ダウンタウンなうSP」では
浜田「じゃ、もう言うわ。お前さ、クスリやってんの?」
清原「風邪薬はやりましたけど」と即座に否定。
浜田が「あの疑いはどっから出てんの?」
清原「やっぱり恨みつらみを買ってるんですよ。そいつらが言うんですよ」
と 自らに恨みを持つ者が噂を流している、という見解を示していた。

誰しもが「やっぱりな」としか言い様がない逮捕報道。
今後の捜査の進展に注目が集まりそうだ。
 

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