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沖縄翁長知事の変節

 投稿者:tomocci  投稿日:2015年 4月28日(火)08時55分46秒
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左翼の拠点・海岸不法占用!
辺野古テント村に直撃取材!





観光客にも平気で嫌がらせする!悪質業者!!
沖縄・伊計島大泊ビーチ駐車場トラブル
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辺野古反対市民のテント撤去要求 北部国道事務所
沖縄タイムス 2015年2月19日

沖縄総合事務局北部国道事務所の大城純一副所長らが19日正午すぎ、名護市辺野古への新基地建設に反対する市民らが、抗議の座り込みを行っている米軍キャンプ・シュワブゲート前を訪れ、2月26日までに市民らが設置したテントを撤去するよう求めた。沖縄平和運動センターの山城博治議長は「市民としてギリギリの抵抗をしているだけ。国の違法行為の方が重大だ」と答え、当面は撤去しない考えを伝えた。

 同ゲート前では、市民らが昨年7月から座り込みを開始し、ことし1月15日から24時間態勢となった。同事務所はこれまで口頭で注意をしていたが、文書を持参しての注意は初めて。

 大城副所長は「再三、口頭で注意してきた。地域から苦情も出ており、道路管理者として指導の一環として来た」と説明。山城議長は「人が通れるよう通路もあけており、夜中に大騒ぎするわけでもない。最大限配慮しながらの抗議だ」と説明。大城副所長は「今後も引き続き、関連法にのっとって適切な指導をしていく」と話した。





総額11兆円超! 「沖縄振興予算」という“麻薬”
http://9321.teacup.com/sinpo/bbs/1608

辺野古移設工事は、日米政府の合意事項の実施にすぎない
http://9321.teacup.com/sinpo/bbs/1457


沖縄翁長知事の変節

「絶対に辺野古に新基地は作らせない」。安倍首相にそう啖呵を切った沖縄県の翁長知事は、かつて辺野古移設を推進する動きの中心にいた。市議から県議、市長、そして知事に登り詰めた翁長氏はなぜ変節したのか。総力取材で「沖縄のタブー」に迫る特集第3弾!

「辺野古だけで勝てるんだから、俺につけよ」
 沖縄県知事選を約半年後に控えた昨年四月、那覇市役所の市長室で翁長雄志(おながたけし)氏(64)は、ある市議会議員にそう声をかけた。当時は、翁長氏につくか、現職の仲井真弘多(なかいまひろかず)知事につくか、水面下で激しい駆け引きが繰り広げられていた時期。声をかけられた市議は、「選挙のために辺野古を利用している」と感じたという。
「絶対に辺野古に新基地は作らせない」
 四月十七日に行われた安倍晋三首相との会談でそう述べて、いまや反基地運動のシンボルと化した翁長知事。だが、その足跡を詳しく調べていくと、露になるのは見事な変節ぶりだ。
 なぜ、保守政治家の翁長氏が変節したのか。今回はその経緯を詳らかにしたい。
 翁長氏が生まれたのは、一九五〇年。沖縄が米軍統治下に置かれて五年目のことだ。父親は、後に那覇市と合併した旧真和志市の市長だった翁長助静(じょせい)氏。
「翁長家は沖縄の保守政界を代表する名門です。助静氏は琉球政府の立法機関だった立法院の議員にもなり、翁長氏の兄の助裕(すけひろ)氏は沖縄県議から副知事まで昇りつめました。その裏で二人ともいくたびか落選を経験。助静氏は那覇市長選、助裕氏は知事選で苦杯をなめています」(ベテラン県議)
 革新が強い沖縄で保守政治家の子に生まれた翁長氏は、周囲に嫌がらせを受けることもあった。二〇〇三年に出版した著書『創造への挑戦 風格ある県都那覇市を目指して』で、父親が立法院議員選挙で落選した時のことをこう回想する。
〈(教室の)黒板に翁長助静、相手側候補の平良良松と書きまして、平良良松さんのところに二重丸をして、私の担任が万歳三唱をしているんですよ。(中略)保守の側に家族を持つ者としては、大変耐え切れないところがございました〉
 小学六年の時のことだ。翁長少年に大きなトラウマとなったのであろう。
 その後、県内一の名門・那覇高を卒業した翁長氏は東京の法政大学に入学。当時の沖縄は米軍統治下で、実家からドルで送金を受けた。菅義偉官房長官は、大学の先輩になる。卒業後は沖縄に戻り、建設会社勤務の後、三十四歳で那覇市議選挙で当選。四十一歳で兄の地盤を引き継ぎ、県議に転身する。
「この頃の翁長さんは、自衛隊の支援活動をする沖縄県防衛協会の青年部会長を務めるなど、自民党の中でも特に保守色が強い存在でした。九三年に糸満市で開かれた全国植樹祭に出席するため天皇皇后両陛下が訪沖された際には、訪問反対の運動が盛り上がる中、翁長氏は日の丸の旗を振って、万歳をして歓迎してみせたのです」(自民党県議)
 翁長氏が県議になる二年前の九〇年には、革新の大田昌秀氏が知事となっていた。大田氏は、県内全ての米軍基地返還を求める「基地返還アクションプログラム」を発表するなど、政府と激しく対立した。翁長氏は大田知事への追及で一躍名を馳せた。
「彼は他人の揚げ足を取るのがうまく、早口でまくしたてる。気が短い大田知事は顔を真っ赤にして怒るのですが、そんなのお構いなし。『そんなに言うのならあんたがやってみろ』と大田知事が言い出し、議場が大爆笑となったこともありました」(自民党元県議)
 当時、翁長氏は本会議で大田氏をこう追及している。

反基地の契機はオスプレイ

〈(大田知事が)保守、革新を超越した基地反対闘争の結集を訴えるのは県民向けの受けのいいポーズであり、マスターベーションにすぎないと同時に、県民の結束をみずから放棄していると言われても仕方がありません〉(九四年三月の県議会)
 九七年に自民党沖縄県連の幹事長となった翁長氏は、九八年の知事選で経済界から稲嶺恵一氏を担ぎ出し、「十五年の使用期限、軍民共用」との条件付きながら、名護市辺野古への移設容認を公約として当選させた立役者でもある。
 九九年の県議会本会議の議事録には、この公約を支持する次の発言がある。
〈(稲嶺)知事がキャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域に場所を候補地として選定いたしまして、昨年の知事の公約を実行型県政としてしっかりと踏まえて一つ一つ前に進んでいることを高く評価をするものであります〉
 この年の県議会で野党の反対を押し切り「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」を可決させた中心メンバーも翁長氏だ。
 議会で提案者を代表して提案理由を説明した翁長氏は、基地問題をめぐる大田前知事の姿勢を「オール・オア・ナッシングの姿勢」と批判し、政府との信頼関係を損なったと非難した。当時、自民党県議で、後に衆議院議員となる安次富(あしとみ)修氏はこう振り返る。
「決議案に対して共産党から三百くらい質問が出され、ジュゴンや珊瑚のことも言われましたが、朝までかかって可決した。同じ年に名護市議会が普天間の移設を容認する決議を可決した時も、幹事長として総指揮したのが翁長氏。彼は一貫して、辺野古移設を推進する動きの中にいたのです」
 〇〇年には那覇市長選挙で当選。かつて同じ選挙で敗れた父の雪辱を果たした。市長就任後は、那覇市役所庁舎での初めての日の丸掲揚や自衛官募集業務の受託など、長く続いた革新市政時代を覆す動きも見せたが、変わり身の早さを物語るエピソードもある。
「『市長専用の公用車を廃止し、自転車で通勤する』との公約を掲げて当選し、しばらくは自転車通勤をして新聞でも好意的に報じられた。ですが、ほとぼりが冷めると『自転車では夜の会合に行けない』と通勤にハイヤーを使うようになり、さらに『ハイヤーでは秘密の話ができない』と、公用車を復活させた。しれっと言うことを変える人なんです」(那覇市議)
 妻の樹子(みきこ)氏とのあいだに二男二女。長男は選挙で戦った仲井真氏が会長を務めた沖縄電力に勤務し、次男や長女も県内の企業に勤務。次女は関東地方の大学に通う。翁長氏の義理の兄にあたる島憲正氏はこう語る。
「彼は学生の頃はトランペットをやっていて、歌もすごくうまく、『嵐を呼ぶ男』など石原裕次郎ならなんでも歌います。野球が好きで巨人を一生懸命応援している。市長時代に建設した野球場に巨人のキャンプを誘致したぐらいですから」
 なお、四月五日に菅官房長官と会談した際に批判した「粛々」という言葉は、翁長氏もよく使う。県議会や那覇市議会の議事録を調べてみると、短い答弁の中で四回も「粛々」という言葉を使ったこともあった。一〇年二月の市議会本会議では、政治哲学を問われて、「市長としてできる限りのことを粛々と果たしていきたいと考えております」と答弁している。
 そんな翁長氏が反基地の動きを強めたのは、「オスプレイの頃から」(義兄の島氏)だという。
 米国が普天間に垂直離着陸機のオスプレイを配備すると表明したのは、一一年六月のこと。すると、県内のメディアを中心にオスプレイを「事故が多発する欠陥機」などとするキャンペーンが展開され、配備の撤回を求める動きが広がった。
「配備に反対するため、県内の各政党や団体が横断的に参加する県民大会を催すことになり、実行委員会の共同代表に翁長氏が就任。一二年九月に開かれた大会には数万人が集まり、翁長氏は一躍、反基地運動のリーダー格としてメディアに持ち上げられるようになった」(前出・自民党県議)
 この大会の翌月に米軍がオスプレイの配備に踏み切ると、一三年一月に翁長氏らは上京し、「オスプレイの配備撤回」と「米軍普天間基地の県内移設断念」を求める「建白書」を首相官邸で安倍首相に手渡した。
「かつての彼の立ち位置からすれば考えられないことでした。ですが、この運動を通して翁長氏は革新各党と太いパイプを持つようになり、昨年の知事選で見せた『オール沖縄』のひな形を作ったのです。鳩山由紀夫元首相の『最低でも県外』発言以来の県内世論の後押しや地元紙の特別扱いもあって自信を深めていったのでしょう」(同前)
 この時の上京で翁長氏を前のめりにさせる出来事があったと振り返るのは、知事選で翁長選対副本部長となった「かりゆしグループ」会長の平良朝敬(たいらちょうけい)氏だ。
「上京したメンバーでオスプレイ配備反対のデモ行進を銀座周辺でしたのですが、極右団体によるヘイトスピーチで『売国奴!』などと罵られたのです。翁長さんは『絶対に許せない。沖縄はいつまでもヤマトに対して黙っていていいのか』と憤っていたのです」
 一方、この時期の翁長氏について、県内移設を容認する中山義隆石垣市長はこう証言する。
「安倍首相に提出する建白書に県内全市町村長が署名するということになり、私も署名を求められた。ですが、当初はオスプレイ配備撤回だけだったはずの文面に、普天間の県内移設断念が加えられていた。私には到底、署名できるものではなかったので、その旨を伝えると、翁長氏は私の携帯に何度も電話して説得を試みた。それで、最終的に建白書に私も署名はするが、お互いの立場を確認する書面を取り交わそうということになったのです」
 石垣市役所に保管される確認書には、「県外への移設を理想とするものの、普天間基地の早期移設と周辺住民への危険性の除去を最優先と考えており、県内移設の選択肢を否定するものではない」とあり、中山市長と翁長氏らの署名と捺印がある。知事就任後に安倍首相に「絶対に作らせない」と明言してみせたこととの整合性は、ここにはない。
 翁長氏が反基地傾向を深めていく中で深刻になっていったのは、蜜月だった仲井真知事との確執だった。
「翁長氏は一〇年に仲井真氏が再選を果たした時の選対本部長を務め、一時は翁長氏が“仲井真後継”と見られていた。ところが、一三年に琉球大学教授だった高良(たから)倉吉氏が副知事に任命されると、『知事は高良さんを後継にするつもりだ』と噂され始め、仲井真氏と翁長氏の溝が深まっていったのです」(県庁幹部)
 仲井真氏が一三年末に名護市辺野古の埋め立ての承認へと踏み切ると、革新系各党は翁長氏に知事選出馬を要請。那覇市議会では、保守系の市議らの間でどちらにつくか水面下の駆け引きが激化した。冒頭のやり取りは、この時のものだ。
 実は、選挙前に翁長氏と仲井真氏の一本化を目指す動きが水面下であった。
「那覇市内の小料理屋で仲井真氏らと翁長氏らが密かに話し合いの場を持ったのです。仲井真氏側が『三期目を二年で辞め、その後は禅譲するから、今回選挙に出るのはやめてくれないか』と申し入れると、翁長氏は、『考えさせてほしい』と答えた。これは脈があるなと思ったのですが、革新側との選挙協力が順調に進んだためでしょう、二度目の協議の場を持とうと連絡しても、電話に出なくなったのです」(自民党関係者)
 選挙結果は、三十六万票対二十六万票で翁長氏が勝利。兄の助裕氏が果たせなかった夢をついに実現したのだ。地元メディアも辺野古移設に反対する県民の民意が示されたと喧伝した。
 だが、前出の安次富元衆議院議員はこう総括する。

「反対することが大事なんだ」

「オール沖縄という美名の下に革新共闘と保守の一部を取り込んで選挙態勢を構築したのは、つまるところ権力闘争の戦術です。オール沖縄の実態は、仲井真さんのことが嫌いな人たちが結集した、恨み辛みの選挙だった。そこに、辺野古移設問題を糊塗しただけとも言えるでしょう」
 翁長氏の移設反対の本気度を疑わせるエピソードはこと欠かない。一昨年八月に南城市内のホテルで開かれた県内の市長会でのことだ。
「市長たちの懇親会の席で翁長氏は、ワインを飲みながら、『辺野古はどうせ国がやるんだ。でも簡単には同意するな。反対することが大事なんだから』と発言したのです。出席した他の市長たちは一斉に『えっ』という顔をしました。『まるで、“ゆすりたかりの名人”みたい』とこぼす市長もいたほどです」(出席者)
 懇親会に出席した市長四人に確認したが、細かなニュアンスの違いはあるものの、いずれも翁長氏の同趣旨の発言を認めた。
 かつて翁長氏に県議会で激しく追及された大田昌秀氏は昨年、東京外大教授の山田文比古氏のインタビューにこう答えている。
〈私が県知事であったときに、基地反対に一番抵抗していたのが、今頃になってオール沖縄などと唱えている連中だ。そうした過去の経歴や主張を見ると、信用できない。いつ変わるか分からない連中だ。(中略)この連中がいんちきなことを始めているとしか私には思えない〉(『オール沖縄VS.ヤマト 政治指導者10人の証言』より)
 大田氏が翁長氏らのことを信用できない、と喝破している事実は見逃せない。
 翁長氏は知事就任後、ワシントンに駐在員事務所を設置するなど、米国に直接基地問題を訴えることも打ち出している。キャロライン・ケネディ米国大使との面談の申し入れは「会う目的が明確でない」と断られたが、五月末から訪米して米政府や議会関係者との会談を重ねる予定だという。
 元在沖縄米国総領事のケビン・メア氏はこう話す。
「米国政府にとっての交渉相手はあくまでも日本政府であり、沖縄県知事といえども交渉相手とはなり得ない。ハワイ州知事が米軍の基地の体制を決めたりしないのと同じです。沖縄は戦略上の要地であり、尖閣諸島に中国の公船が連日、押し掛けているように、中国の脅威は現実のものです。そんな中で基地が必要ないとの姿勢を取ることは無責任だと言えます。沖縄にとっても一定の基地は必要だということを理解すべきではないでしょうか」
 小誌は翁長知事にインタビュー取材を申し入れたが、残念ながら多忙を理由に断られてしまった。
 知事の座を手に入れるまで、翁長氏は変節を繰り返した。そのために基地問題が利用されていたとしたら、これこそが沖縄県民にとっての不幸である。

「週刊文春」2015年5月7日/14日 ゴールデンウィーク特大号

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